伝統的弓術武道「四半的」の関東稽古会射法解説書
■ 四半的弓道・半弓術の射法教伝 ■
「四半的弓道関東稽古会」は、九州地方の伝統的弓術武道「四半的」の可能性を追及する現代流派です。
四半的の射法や古流体配の研究、また、剣術居合などを習得する平成流古武道研究会です。

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  関東稽古会 四半的弓道の稽古形
Date:
本会は、戦国時代から宮崎県日南市の旧飫肥(おび)藩城下に伝わる弓術武道「四半的弓道」(無形民族文化財指定)を弓技として愛好する関東の同好会です。半弓を用いた弓術と居合・剣術を加え、武道という観点で「四半的」の可能性を追求し、独自の射法や形稽古を行う古武道会です。競技射法は、宮崎県四半的弓道連盟が制定している競技規定を「制定形射法」として基準にしています。また、関東稽古会で考案した古流形以外の稽古形はすべて「平成流」としています。当会は、現在、本部を東京江戸川区に置き、東京武道館で月例稽古会を行ない、支部道場を千葉県、神奈川県などに展開して活動しております。また、公式団体(協会)としては、九州の宮崎や熊本の他、関東地方では府中・国立市に、「府中市四半的弓道連盟」があり、競技大会などが盛況に行われているようです。(※尚、連盟の組織と当稽古会とは関連しておりません/牧 栄)


■「関東稽古会」の射法形は、正座射・立射・坐射・立膝射の4本と古流稽古形があります。

戦国の世で、小型弓の特性を活かして武器として多いに威力を発揮したことは確かな事実ですから、実戦を想定した武術として考えれば立射 (Risha [Standing Practice] )つまり立ったまま矢を番える(つがえる:弦に矢をはめること)射形が基本になるはずです。実戦でも早く矢を射ることが可能で競技の進行も早いです。また、本来弓道には正座で射る形はなく、どちらかというと坐射 (Zasha [Seated Practice] )です。一度座って矢を番えるのが坐射で正式に弓を引く際に行われる射なので、審査や射礼時に行われます。(※座ったまま弓を引くわけではありません。膝をついて弓を引く技法は跪射(つくばい)と呼ばれ、日置流(へきりゅう:流派の一つ)の弓術として存在します⇒後に四半的弓道に影響したようです。

四半的は、矢が長いので正座での射形(射法)はむしろ自然で、規定の競技姿勢なので、基本姿勢(基本射法)として必ず習得しておくべきです。あとは、弓術としての可能性を追求した射法・射形として個別流派で取り込んで稽古に励むことが大切です。「平成流 四半的 関東稽古会」でも、基本は正座射ですが、平成流としては、坐射・立膝射・立射の3本の稽古形を中伝・奥伝に追加、稽古教本に取り入れました。それぞれの形は、「初伝・中伝・奥伝」の中で習得され昇段審査および試合の中で演武として披露します。特に奥伝は、平成流関東稽古会独自の「弓術射法形」となります。(田中清治)




※四半的の古流射法の形稽古は⇒http://www.rak3.jp/home/user/bushidou/


  関東稽古会 中伝・射法教伝
Date:
■四半的(四半弓)での「坐射」(平成流射法)

射法とは、弓矢をもって射を行う場合の射術の法則をいい、弓道を修練する場合には、まずその基準となり法則となっている射法を、よく理解することが必要です。
昔から射法の形式は七道または五味七道と称して、一本の矢を射る過程をその推移に順応し、七項目にわけて説明されていますが、近世これに「残心」(残身)という一項を加えて八節となりました。すなわち、次のような名称で区分されています。

●正座・・胴造り・・弓構え・・打起し・・引き分け・・狙い・・離れ・・残心・・。



「平成流 四半的 稽古会」では、中伝の坐射の形においては「平成流」の射法を導入しています。これは、大弓の坐射と異なり正座姿勢で矢番がえをして肩膝を地につけた姿勢で矢を射る射法です。基本的にはすべてが射法八節の流れとなりますが、正座射法で「弓構え」をおこなったところで左膝は地につけたまま右膝を立て、そのまま「片膝の中腰姿勢」になります。戦国時代・足軽弓隊の合戦(野戦)射法です。その姿勢で「打起こし」に入り、あとは、正座射法と同じ要領です。ただし、矢番がえの時は、目線を維持する為に、また正座姿勢になります。(射場入場の礼法も正座射と同じで、椅子に座る射法も坐射として扱います。この場合のみ矢番がえの動作は椅子にすわった状態で行なってもよい)

※平成流中伝「立て膝の射法」について説明します。これは、長時間正座姿勢を保てない場合(人)や障害のある方などに適しています。正座姿勢で的前礼をしたあとに、的直角に向き直す時に右の膝を立てます。通常は坐枕を用い、臀部にあてて腰掛けるような状態で射矢します。基本的動作は、正座射法と同じです。立膝で胡座をかいてるような姿勢で、弓が床に当たらないように坐枕を用いる為、脚が痺れることもありません。


(1)坐者もしくは立膝で胡座の姿勢(射法は正座と同じです)
 
立膝(正座)は射を行う上で最も大切な、正しい姿勢の基礎となるものである。
まず、弓を左手、矢を右手に1本(平成流では2または4本・乙矢甲矢)持って、手の位置は腰にあてた姿勢(執り弓の姿勢)で射位に入り、的の正面で的に向かって「揖」軽く一礼。矢を左手に持ち替えて(弓と一緒に持つ)的を正面に見て弓と矢を左側に立てた格好で正座する。

※初伝稽古教本参照

正座したら、弓と矢は前(的の方向)に倒すように置きます。(左の膝前あたりから的方向に置かれている感じ)この正座姿勢で両手は膝の上にあるので、ここで的に向かって両手を着いて一礼する。(深い礼の場合は、膝の上の手を両脇に下ろしてそのまま前に出しながら頭を下げて礼をする小笠原流の礼になる)

初伝稽古教本参照

このままの姿勢では矢を射ることはできないので、右に向きを変えると同時に、的と直角に立膝で座り直す。この場合、安定できる程度に両膝を開き右脚を立てます。的と直角に向きを変えた時、先ほど置いた弓と矢は、左脚の膝前右側に置かれているかたちになる。



(2)胴造り(どうづくり)

胴造りは上体の安定を確保するためのもので、立膝座り(正座)に続く動作で、両者は区別されるものではない。肩の力を抜いて精神を統一をする。

左膝前に置いた弓と矢を右膝上まで引き寄せてくる。左手で弓の握り矢を持って、矢を左膝の横に立てる。



次に右手で矢筈(やはず)をつまみあげて、矢の3分の1のところを弓にあてがい、左手の人差し指と親指で矢をつまむ。次に矢羽まで送り込む。



(3)弓構え(ゆみがまえ)

 弓構えはいよいよ弓を射る動作に入る準備で、取りかけ、手の内、物見からなる。

取りかけとは、右手で矢筈に弦をつがえて親指と人指し指で矢筈をつまむことである。浅くもなく深くもなく適当な位置でつまむ。

手の内とは左手の弓の握り方のことで、普通に物を握るように5本の指で握り込んではいけない。主として親指と中指を使う。中指の上端に親指を少し重ねて、中指の爪が少しかくれるようにする。両指は射が終わるまで離さない。人指し指は自然に伸ばすか軽く曲げる。薬指と小指は、中指の下に軽く重ねて添える。

正座姿勢で(矢番がえし)弓構えをおこなったところで左膝は地につけたまま右膝を立て、そのまま片膝立ちの中腰姿勢になる。矢に沿って視線を的の方へ移す。ここで物見定めである。その姿勢のまま打起こしに入る。あとは、正座射と同様であるが、次の矢番がえの時は正座姿勢にもどる。

(4)打起し(うちおこし)⇒片膝立ての姿勢に入る

弓構えした矢を呼吸に合わせ、静かに左ひじを軽く伸ばしながら、一般弓道形の的前正面打ち起こし45度の高さで、両腕を上げることをいう。それから大三に入り引き分けとなるが、四半的においては、斜面打ち起こしが多い。左肘を軽く伸ばしながら、的前正面で静かにほぼ目の高さまで上げ、矢先は水平よりやや下で、必ず的の方向にある。打ち越こしは、急ならず雄大で且つ円滑に行なう。ただし正座射法の時ほど安定していないので、左足の膝、左足の指、右足の3本で体を支える。実戦では茂みの中から矢を射ったり、草むらに潜んで不意打ちをかける時の射法(武射系)といえる。

(5)引き分け(ひきわけ)

引き分けは右利きの場合、左手(押し手)を伸ばしながら、右手(引き手)で弦を引き分
ける。打ち起こしで、目の高さまで上げた弓を、その位置から左右に引き分ける動作である。引き分けは右手の手首で引かずに肘で引き、胸を開く気持ちで行なう。
右手の矢筈の位置は右目下あごの部分で止める。左手首、両肩、、右肘、右手首まで水平となっていなければならない。これを正しい押しての十字型という。

※四半的の引きは顎まで!

(6)会(ねらい)

引き分けが完成され、矢のねらいをつける状態をいいます。矢の先端を的の中心に定めて、呼吸を止めて、矢がぶれないように狙いを定める。

(7)離れ(はなれ)

発射する瞬間をいい、会と一体のものである。押して(左)と引き手(右)が充分伸びて全身全霊が1本の矢に集中されて発射されるのが離れである。的が定まったときに指を離せばよい。矢離れしてら残心。(後は、そのまま正座にもどる。2本目の矢番がえをする場合は正座にもどるが、立膝姿勢のまま続けてもよい場合もある。)

(8)残心(ざんしん)

 残心とは、初伝でも述べたが、矢を射った後も姿勢を変えず、矢所(矢の着点)を見定め今の一射の流れを反省することである。射坐の場合は矢離れ後に残心してから正座姿勢に戻る。射矢が終了したら、的前に座り直して一礼して起立、うしろへ下がり審査員に一礼して退場し演武終了。(居合抜刀術の技がない場合)

※ この8項目の射法は、区別をしただけで本来連続して行って初めて成立するものである。また、中伝・奥伝では、(9)の居合抜刀術が技として追加されている場合もある。

(9)左受け流し諸手突き抜刀
残心後の正座姿勢(的前の座り直す前)の状態で、左(的方向)から突然敵が現れた。こちらに切り下ろしてくるのを「鎬」で受け流し、さらに袈裟に切り下ろす。つかさず諸手で「水月」を突き刺して勝つ。(8)へ戻り的に一礼して退場。


■四半的(四半弓)での立膝射法考察

立膝射法は、初伝の「正座射法の写し」である。射位に入り正座姿勢で的に礼をした後、的と直角に向き直るが、その時に立膝をついて座る。後は、射法八節で正座射とまったく同様である。ただ、正座ほど安定しないのと、腰に力がはいらないので引きも甘くなる。的への目線も少し低くなる為、坐枕を使用する。特に矢離れの時、弓が床に当たってしまうことがあるので注意する。また、この射法だけ略式礼法のやり方がある。


  関東稽古会 立射 (奥伝・射法教伝) 
Date:
■四半的「立射」(平成流立射・正面打ち起こし射形)

奥伝は平成流独自の四半弓を用いた稽古形です。技は、初伝・中伝の継続ではありません。立射で的までの距離は近的8.2m、遠的16.4mがあります。(遠的行射では半弓においても弓力が4.3以上の弓となる)

■「立射」
 
射法とは、弓矢を持って射を行う場合の射術の法則をいい、弓道を修練する場合には、まずその基準となり法則となっている射法を理解することが必要である。 昔から射法の形式をは七道または、五味七道と称して、一本の矢をいる過程をその推移に順応し、七項目に分け説明されているが、近世これに「残身(残心)」という一項を加えて八節となった。

@足踏み(あしふみ) A 胴造り(どうづくり) B 弓構え(ゆがまえ) C 打ち起し(うちおこし) D 引分け(ひきわけ) E 会(かい) F 離れ(はなれ) G 残身(心)(ざんしん) H剣術抜刀居合(弓剣術)

 射の運行にあってはこれらは終始関連し一環をなし、その間分離断絶することがあってはならない。たとえば一射は一本の竹のようなもので、この一貫した竹に八の節があると同じである。八っの節は相互に関連する竹であるけれども、また異なったた竹であることに注意しなければならない。     
 平成流の立射は、「錬士」習得の形なので、基本的に日置流のように帯刀姿勢である。演武形での抜刀もある。また、矢は四半矢を用いる。基本的に立射は遠的(16.4m)を使った遠矢になる。射場への入場は、左手に弓、右手に矢(2本)を持ち、「執り弓の姿勢」で腰に構える格好で入る。的の正面「射坐」で揖(礼)をして演武に入る。3足で射位に入り胴造りとなる。矢番がえの時の2本目の矢は小指と薬指、または中指の間などで挟むように持てばよいが、矢が長いので床に置いてもよい。打ち起こしは正面と斜面のやり方があり、引き分けにおける四半矢の場合の勝手の弦引きは、近的で顎の位置まで、遠的で口割り(大弓と同じ)になる。

@ 足踏み   

「足踏み」は、弓を射る場合、その基礎となる最初の足の踏み方・・足がまえ・・である。矢が正しく的にあたるためには、まず正しい姿勢をつくることが必要で、そのためには正しい足踏みをしなければならない。単なる足開きではない。「足踏み」は、射位(弓を射る位置)で脇正面に向かって立ち、両足先を的の中心と一直線に外文字に開く動作である。その角度はおよそ60度で、両足先の間隔は、およそ自己の矢束(やつか)とする。
 この足の開き方に2つの方法がある。そのいずれを行ってもよい。
   @ 的を見ながら左足を的に向かって半歩踏み開き、次に右足をいったん左足の辺りにひきつけ、右へ一足で扇形に踏み開く。
     この場合足元を見ないでおこなう。
   A 的をみながら左足を的に向かって半歩踏み開き、次に眼を下にうつして右足をこれと反対に半歩踏開く、このとき開く両足の
     膝間接は常に自然に伸び、足底を大地に踏みしめ、腰を据え、下半身を安定させ、「胴造り」の基礎とする。

※以下、解説内容は大弓の場合ですが、射法の流れと体配はすべて同じ考え方です。

用語解説
   「足踏み」・・・射手が矢を発する時に、的と射手の相対的位置を決定する最初の行射動作。
   「脇正面」・・・射位から的に向かって右方向。射位で胴造りをした時の、体の正面方向。
   「射  位」・・・射場において、弓を射るべく定められた位置のこと


A 胴造り

 「胴造り」は、「足踏み」を基礎として、両足の上に上体を正しく安静に置き、腰を据え、左右の肩を沈め、脊柱及び項を真っ直ぐに伸ばし、総体の中心を腰の中央に置き、心気を丹田におさめる動作である。この場合、弓の本弭(もとはず)は左膝頭に置き、右手は右腰の辺りにとる。以上の動作と配置によって全身の気息を整え、縦は天地に伸び、横は左右に自由に動けるような、柔らかい且つ隙の無い体の構えをつくるとともに、気息をととのえることが肝要である。
 こうした沈静的な動作は、つぎの活動的な動作へ移る前提であり、「胴造り」は、終始行射の根幹となり、射の良否を決定する。「胴造り」は、外形的には一見単純な動作のように見えるが、内的にはまことに重要なものである。

用語解説
  「胴造り」・・・足踏みの上に腰を据え、自然の体に上体を据えた行射過程の一つ。
  「丹 田」・・・へその約3cm下の下腹部にあり、体の重心部である。
  「本 弭」・・・弓の下の弦をかけるところ。


B 弓構え  

「弓構え」はいよいよ射の活動に移る直前の動作である。したがって「足踏み」「胴造り」による基礎体勢を保持しつつ、呼吸を整え気力を充実して動作しなければならない。「弓構え」は、正面の構えと、斜面の構えとがある。いずれも「弓構え」の中には、「取懸け」「手の内」「物見」の三っの動作が含まれている。すなわち 正面(射手の顔は、弓と弦との間にある)で、指を弦にかける。(1本矢の場合)
  
構えで斜面の構えの場合は、取懸けた後左斜 で手の内を整え弓を押し開き、そこで「弓構え」をする。「取懸け」では、右手の前膊と弦とが直角の角度であって、手首が曲がらぬように注意しなければならない。
ことに「手の内」は、弓の力をよく働かせ、矢の速度・貫徹力・飛翔力、集中力に影響する大切な技法であって、昔から「鵜の首」「紅葉重ね」卵中」握卵」などの名称があるが、要するに弓を固く握らず、 あたかも卵を握るような気持ちを表現したもので、むずかしいことであるから、指導者についてよく修 練することか゛必要である。
以上の準備ができて、手首や肘は柔らかに物を抱くような気持ちで弓矢を保ち、それから頭は正し く的に向けて注視する。これを弓道の術語で「物見を定める」という。

用語解説
  「弓構え」・・・足踏み、胴造りを終えた後に、取り懸け、手の内を整え、物見を定めて打ち起こす準備の
           完了した構えをいう。
  「取懸け」・・・馬手(めて・・弦に懸けた手)を、矢にからませ、同時に矢を保持することをいう。
  「手の内」・・・弓手(押手)で弓を握る方法やその形。
  「物  見」・・・的を見込むため、的のほうへ顔を向けること。  

C 打越し             

「打起し」は弓を引き分ける前に弓矢を持った両拳を上あげる動作である。「打起し」には、「正面打起し」と「斜面打起し」との二つの方法がある。
四半弓の場合は大弓のように大きく高く上げる必要もなく、斜面打起し(日置流)が多い。
  ・正面打起しは、「弓構え」の位置からそのまま静かに両拳を同じ高さに打起す。
  ・斜面打起しは、斜面の「弓構え」から左斜面に打起す。

 正面「打起し」の角度は、約四十五度を基準とするが、年令や体格によって多少の違いがある。最初から矢(弦)は少し引きぎみにしておく。「打起し」の際は精神身体ともゆったりと伸び伸びとした気持ちで、気息を整え「胴造り」の崩れぬように、また拳に無用な力をいれぬように、矢は常にほぼ水平に且体と平行に、両肩は下に沈むように注意しなければならない。あたかも太陽が静かに昇る境地、無風帯の日に空に煙がゆったりと立ちのぼる風情、呼吸に合わせて静かに打起すことがよい。

用語解説
  「打起し」・・・弓構えをし、弓を最も引き分けやすい位置に持ち上げる動作である。

D 引分け

「引分け」は、打ち起こした弓を左右均等に引分ける動作である。「引わけ」は射の運行にあたってその中心をなすもので、「引分け」の良否は次にくる「会」「離れ」に大きく影響する。昔は「引取り」と称していたが、射を行う場合、弓を押し弦を引いて弓を左右に等しく分けるのであるから、表現どおり現在は「引分け」と称している。引分けの方法には、次の三つの様式がある。
 * 正面に打起こし「大三」を考え途中止めずに引き分ける。
 * 正面に打起こし、「大三」−押大目引三分一をとり引分ける。
 * 左斜面に打起こし、途中とめずに「三分二」をとり引分ける。

 以上いずれの引分けの場合でも、両拳に高低なくほぼ水平(または矢先がわずかに低い程度)にし、矢は体と平行に運び、矢先が上がらぬよう的に向かって水平を保ちつつ左右均等に引分ける。その弦の通る道「弦道という」は、額の約一拳ないし二拳以内のところで、左手拳は的の中心に向かって推し進め、特に遠的の場合では、右手拳は肩先まで矢束(自己の引く矢の長さ}一ぱいに引き、頬につくように、口のあたり(頬づけといい、口の線=口割りより下がってはいけない。)で引きおさめ、弦は軽く胸部につけ(胸弦という)、縦横十文字の規矩を構成する。
 「大三」あるいは「三分二」などの場合、外観的には形がとまっているように見えるが、体全体の働き「張り」を考えての規矩である。
 「引分け」の動作は、腰を中心として、息合いと協応して、ゆったりと静かに、遅遠なく、水の低いきに流れるように左右均等に引分けなければならないが、この場合、゜胸の筋骨と背の筋骨を使って胸の中筋から左右に開くように体を弓の中に割って入る気持ちが必要である。いわゆる体で引くことが肝要で、これが正しく行われると弓矢と体との縦横十文字もただしく構成され、弓体が一体となる。

用語解説
  「大 三」・・・「押大目引三分一(おしだいもくひけさんぶんのいち)」の略。弓を押すには力を多く し、引くには三分の一の力を使えという意味である。また引き分けの一時期をいうこともある。「三分二」・・・弓を引く際に、矢束を三つにわけた2番目まで引くことで、算術的に三分の二を引く意ではない。
   

E 会
※四半弓の場合は弦は顎までの引きでよい。(遠的の場合は口割まで大弓と同じ大引きになる)

 「会」は形の上では「引分け」の完成された状態をいうが、射手の心理からいえばむしろ無限の「引分け」である。今までの諸段階はこの「会」に到達するために行ってきたもので、精神・身体・弓矢が渾然一体となり、間断なく天地左右に伸張して(伸合い)発射の機を塾せる頂点で、まさに弓射の極致である。
 「会」において重要なことは、「詰合い」と「伸合い」である。
 「会」を構成する根本の条件は縦横十文字の規矩を正しく守ることにあるが、それには「引分け」を正しく行わなければならない。「会」において縦横十文字の規矩を堅持し、五重十文字が構成され、天地左右にに伸び合うためには要所要所の詰合いが十分でなければならない。したがって詰合い・伸合いが良射を生む絶対的な条件である。
  (詰合い)「会」にはいったとき、縦横十文字の規矩が構成されるにはその内容として各所の詰合いが総合的に働かなければならない。
 ○ 縦線の構成
  両足底ー腰ー両肩が、上方から見たとき正しく一枚に重なり、脊柱、項が上方に伸び、下半身を安定させると共に上半身を伸ばす。これを「三重十文字」と称し、縦線を構成する基本条件とされている。三重十文字には「ひかがみ」の働きが大切である。
 ○ 横線の構成
 両肩を基点として、両肘の働き、左右両腕の張り合い、すなわち、両腕を貫通している中筋をもって左右均等に張り合うことが肝要である。拳や手先のみで張り合わないように心がけねばならない。 さらに左手(押手)いわゆる角見(拇指根)と右肘の張り合い、同時に胸の中筋より左右に分かれるように(胸を開くように)する。 昔から、これを「詰合い」と称し、「五部の詰」あるいは「四部の離れ」といわれている。

 (伸合い) 伸合いは、絶対不可欠の条件である。伸合いのない射は、結局手先で離すことになる。伸合いは、矢束を引き伸ばすことではなく気力の充実である。 縦横十文字を軸として、心を安定させ(平常心)、気力の充実によって気合の発動を促がし、あたかも風船が破裂するように離れなければならない。これが伸合いである。 なかにはやごろという一項をもうけて指導する人もいるが、やごろとは、「離れ」の直前の状態をいうもので、弓と矢の分離せんとする決定的瞬間である。このとき 力は天地左右に流れ、技は十分に働いていることはもちろんてあるが。単に技によってのみ離すのではなく、気力の働きによって技を生かすことが大切である。すなわち、「気は技に優先する」ことを銘記しなければならない。「会」は心理的には不動心の連続であり、的に対する執着心や欲望、雑念を去り、正しい信念に基づき克己、冷静、忍耐、決断力の心気の充実につとめるとともに、疑い、不安、弱気、決断力等の心気の充実に努めなければならない。この修練は、射即人生につながる大切な道である。
 (ねらい) 「会」においては、矢は正しく的の中心線に向かっていなければならない。ねらいは両眼とも開いたままで、左の目尻・右の目頭の視力を用い、左拳と弓の左側、的の中心点とを見通して定めるのが原則である。普通射距離二十八メートル(四半弓では8.2mと16.4m)の的前では水平であるが、距離の遠近、弓の強弱、矢の軽重などによって左拳の高さは多少ちがってくる。

用語解説
    「会」・・・ 会とは、射法上無理なく矢束を引き締め、押し引きに努め、やがて離れに至る過程を言う。
   「詰合い」・・・詰め合いとは、矢束をいっぱいに引き納めたとき、ねらい、頬付け、胸弦が同時についた状態をいう。
   「伸合い」・・・詰め会った後、心身ともに充実して、(やごろ)に至る射手の最大の努力の時期で、行射上もっとも大切な時期を言う
   「やごろ」・・・詰め合って後伸び合い、それが極に達し、まさに離れようとする瞬間を言う
   「三重十文字」・・・足底・腰・両肩が、上方から見たとき正しく一枚に重なること。加えて、脊柱・うなじが上方に伸び、下半身を安定させると共に上半身を伸ばすことが、縦線を構成する基条件とされる。
   「五重十文字」・・・射形上十文字になる個所が五つあり、みな重要であるのでこのように名付けた。
・弓と矢  ・手の内と弓  ・(ゆがけ)の親指と弦  ・胴と両肩  ・首と矢 


F 離れ
※四半弓では矢離れ後の右手はそのまま!軽く引く程度。
 「会」が完成されると「離れ」が生ずる。「離れ」は、発射である。すなわち体の中筋から左右に開くように伸張し、気合の発動とともに矢が離れていく状態をいう。「会」と「離れ」は「会者定離」という仏教語から転用されたと言われるように不離一体のもので、会では力がまとまり、充実して、1本の矢に移され、「離れ」を生ずるのである。 したがって、「離れ」は、自然の離れでなくてはならない。離すのではなく、離されるものでもない。これを例えていえば、葉末にたまった雨露が自然に地に落ちる。−すなわち、機が熟して自然に離れるものでなければならない。
 ・縦横十文字に組合った基本体型を堅持し、伸合いの後、胸の中筋から左右に割れるように離れなければならない。弓手の離れ、右手離れ、伸合いのない合わせ離れなど手先の技巧で離してはならない。
 ・離れは軽妙(軽快にして妙味のある)でなければならないといわれている。軽妙な離れは、手先の力では生じない。技の働きと、気力の充実によって気合の発動により内面的な爆発力によって生ずる。


G 残身(残心)
 矢の離れた後の姿勢をいう。離れによって射が完成されたものではない。なお残されたものがある。精神でいえば{残心」形で言えば「残身」である。「残身」(残心)は「離れ」の結果の連続であるから、「離れ」の姿勢を崩さず、気合のこもったまま、体は天地左右に伸張し、眼は矢所の着点に注いでいなければならない。
 前述のように、一貫した射が立派に完成された時は、「残身」(残心)も自然立派であり、弓倒しも生きてくる。「残身」(残心)の良し悪しによって射全体の判別ができるし、射手の品位格調が反映する。「残身」(残心)の後、弓を呼吸にあわせ倒し(弓倒しという)物見を静かにもどし、足をとじる。これらの動作はすべて「残身」(残心)に含まれるものであるという気持ちで行うことが肝要である。射の巧拙によって不自然な弓倒し、つくろった弓倒しをしてはならない。(足の閉じ方)
足のとじかたには、つぎのとおり3様式がある。
 @ 脇正面に向かったまま右足より半歩づつ引きそろえる。(上座より寄せる)
 A 的正面に向かいつつ、左足を右足に引きそろえる。
B 的正面に向かいつつ右足を半歩寄せ左足を引きそろえる。
注) 足の閉じ方は、「足踏み」の足の開き方と対応するもので、下記の方法を原則とする。
      イ) 開き方@を行った場合は、閉じ方Aの方法による。
      ロ) 開き方Aを行った場合は、閉じ方Bの方法による。
  
H居合抜刀「袈裟切り」(制定居合5本目)
残心直後に、目の前に出現した敵に対して帯刀している刀での抜刀の形が「袈裟切り」である。前の敵が刀を振りかぶって切りかかろうとするのを逆袈裟に切り上げ、さらにかえす刀で袈裟に切り下ろして勝つ。相手が手負いの敵と想定すれば前進して抜刀。

敵を確認したら、刀を抜く前に、左手に持つ弓を後方に置いて、すかさず右足を踏み込むと同時に抜刀。この時、鞘を廻して刀を抜きやすく、また刃が上に向くように廻すことが重要である。(抜きながら廻す)鞘ばなれと同時に「逆袈裟斬」で下から上に向かってりで斬りつける。怯んだところをそのまま右正面(上段)からの袈裟切りで切り下ろす。残心の構え、血振りで納刀。置いた弓を左手で拾い腰に当て的の前に立ち、的に向かって一礼。後退して演武を終了する。また、居合稽古形のみ連続5本行なう場合は刀礼から演武に入る。内容は別に定める。(退場では、国旗・神棚・審査員席がある場合は一礼する。)


  日置流 立射 (奥伝・射法教伝) / その他火縄銃作法・吹矢道について
Date:
■日置流での「立射」・斜面打ち起こし「正射必中」

宮崎県四半的弓道連盟の冊子によりますと、四半的の射形は旧飫肥藩に伝わる日置流弓術の伏射の形を取り入れ、的前斜面打越しとして、正座による体配を正式としているようです。これは、飫肥藩弓術指南が日置流であったというのも影響しています。したがって立射においても、日置流の大弓の体配に準じて考案した射形としています。

@構え方の特徴・・・引き始める前に一度的を見て構えますが、その時左膝の上に弓を乗せて左手で弓を持ちます。右手は左脇に差した刀の柄を持つように、へその下あたりにこぶしを置いて構えます。(帯刀の場合は鍔を抑える)
A打起の特徴・・・左膝の上に乗っていた弓を左手で正しく握りなおし(手の内を作ると言います)、的を見て体の正面よりもやや左側に(平成流立射では、弓を体の正面から前方に)弓を持ち上げます。この時右手がやや上、左手がやや下になるようにします。下に向けた矢先を上方にもっていくのが特徴です。

・足踏
的と自分の位置を定め、上体をしっかりと動かないように両足を踏み開く動作。(注意:写真の矢番え動作は、脚踏が終わってからの動作である。)的の中心と左拇を結んだ一直線上に右拇を一致させるように、足もとを見定めて踏み開く。

・胴造
両足の上に腰をなかだちにして上体を据える動作及びその形。四半弓の場合は、矢は番えて鏃(やじり)を的方向に向ける。弓を膝頭に置き、馬手(引き手)はへその辺(脇差を差した場合、その柄の上または鍔を押える)に置く。日置流および関東稽古会での平成流は、帯刀姿勢で矢を射る形が多いが、大弓の場合は柄に弦がかからないように注意しなくてはならない。四半弓の場合短いので弦がかかるということはない。また、弓や矢を持っていない時は、刀の鍔に親指を掛けるように心掛ける。

・弓構
弦への右手のかけ方、弦の保持方を教える「取懸」の動作と、弓の持ち方(手の内)を定める動作。的を見定める「物見」の動作を含めて、以上の三つの動作を完了し的に対して弓を構えたときの形。弓手を的方向に約四寸(12センチ)程押し開き、的を見定めて構えた状態。

・打起
弓構で構えた弓を、引きやすい位置に両手で挙げる動作。ときによっては、動作完了の位置を指すこともある。平成流の上げではなく、前方出しの斜面打ち越こしである。押し手になる腕が最初から伸びているので、逆に引き手6〜7分といった感がある。これが日置流の特徴である。矢は「水流れ」を維持して、肩が上がらぬ範囲で出来るだけ高く。(「水流れ」とは筈から矢先に水が流れるように、わずか弓手が低いことを言う。)

・三分の二
たんに弓を引き分けるだけでなく、次の詰合に対する準備を、力と位置において教える大切な個所。引き手が主力になっている様子がわかる。矢はまゆ毛の高さ、馬手の拳は耳をやや越す辺り。

・詰合
矢をいっぱいに、法通り引き納め、狙いも付き、形の上で発射の準備が完了した時点。(四半弓の場合は、下顎のあたりまで引けば充分であるが、遠的16mでは口割まで大きく引く)@矢束を引き納め、A狙いが的に付き、B胸弦が付き、C矢が頬に着いた(頬着けという。頬骨の下に矢を着ける)状態。@〜Cは同時に行われるのが理想。

・残心
「残身」とも書くが、印西派では「残心」と「心」の字を使っている。発射した後の形と心の状態を言う。弓は的方向に約十五度位、的から見て脇正面(射手正面)には、五、六度位傾く(伏せる)。馬手の手の甲は上を向くように(捻ったまま放した結果)。両拳の高さは肩の延長線上よりもやや下に位置するのが合理的である。

四半的は、旧飫肥藩に伝わる日置流の射法に多分に影響している。基本的に連盟制定形の正座射の射法形も日置流である。ただ、現在では、正座射しか形が残っていない。戦国時代を終えてから、弓術武道として庶民に推奨されたのだが、天下泰平の江戸時代になってからは、庶民の娯楽や弓競技(遊技)の要素が強くなり、江戸期の中頃には、四半弓道の流派も継承されにくかったのではないかと推察できる。

関東稽古会は四半弓を弓術として、その可能性を追求する現代流派である。射法においては、独自の稽古形とともに、四半弓道の射礼や射法を日置流印西派日置當流浦上同門会の体配を準用しながら、古流弓術武射の要素を加味した稽古形を参考導入している。したがって、正座射のほかに、十三棋道舘道場 弓刀吹将子先生が考案した棋道舘流(摂津流)の片膝・割膝姿勢(甲矢乙矢一手の体配)、平成流立膝姿勢、そして日置流立射、平成流立射などの射法稽古形がある。正座射法以外は全て上段・錬士からの稽古内容であり、基本の正座姿勢が習得できてからである。また、平成流の立膝射は中段者から導入しているが、その場合坐枕などが必要になる。体配の打ち越しについては、大きく二つの形態があり、平成流は上方から斜め前方に押し出して、押し手8分と引き手2分で十文字をつくる射法で一般弓道形である。日置流は、矢先を下に向けて、下方から前方斜め上に平行に上げる。この場合、押して4分と引き手6分ぐらいの感覚で十文字をつくるようになる。どちらかというと上級者向きである。四半的に影響している日置流については、「古流稽古形」として今後も研究課題としていくが、教本内容は日置流(改)として体配の一部を四半的の適すように写したものである。あくまで「平成流古武道研究会の稽古形」として創り直したものであり、本来の弓道流派の日置流はもとより、他流とも一切無関係である。なお、400年前から継承されている四半的独自の射法は、日置流の「伏射の形」として連盟が採り入れている正座射だけだが、江戸時代、飫肥藩の弓道流儀である日置流に影響されて、四半的の体配が創られたらしい。現在、宮崎県四半的連盟や日南市飫肥の四半的保存会に受け継がれている。(田中清治)


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≪古武道番外編・砲術手習い≫


■砲術心得 火縄銃「火蓋を切る」作法■

よく、「火蓋を切る」という表現がありますが、それについてふさわしいお話をしましょう。
「戦いの火蓋を切る」と言う表現は、ほとんどの方がご存じだと思いますが、「源平の戦いにおける壇ノ浦の合戦では、東には源氏軍、西には平氏軍が軍船を並べていました。文治元年3月24日の早朝、ついに決戦の火蓋が切っておとされた!」と言う文章表現といたとしましょう。これは正しいでしょうか、間違っているでしょうか?「戦いの火蓋を切る」というのは、「戦いが始まる」と言うことを示す言葉ですので、文章としては国語的に間違いはありません。しかし、歴史的には、この表現は間違っています。「戦いの火蓋」の「火蓋」は、火縄銃の部品の名前なんです。したがって、源氏と平氏の時代には、火縄銃はありませんから「戦いの火蓋を切る」ことはないのです。火縄銃については、1543年(天文12年)8月25日,九州南方の種子島にやってきた一隻の中国船に,ポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが便乗していました。そして、彼の持っていた「鉄砲=火縄銃」に時の島主種子島時堯が着目して,金2,000両を投じてこれを譲り受け,使用法を教わりました。鉄砲の威力を知った時堯は,種子島在住の鍛冶・八板金兵衛清定に命じて早速その複製をつくらせたのです。これより鉄砲の製造・製作は,またたく間に全国にひろがり,やがて戦国時代になって滋賀県国友や,大阪府堺などで大量につくられるようになりました。

■まずは、火縄銃の構造について調べてみましょう。

火縄銃は、弾と火薬を銃口から込める(挿入する)、いわゆる形式上、前挿銃です。現代の銃器は、前挿銃ではなくて、弾を銃身の後ろから挿入する、後挿銃です。よく時代劇で、銃口に棒を突っ込んでるシーンを観たことがあるでしょう。
銃身の中は、火薬と弾丸が詰められた状態です。尾栓ネジは、種子島に伝来した火縄銃を日本人が模倣する時、なかなかまねができなかったネジだそうです。
銃口内部と火皿とは、火穴という小さな穴でつながっています。
火皿を覆う蓋(ふた)がありますが、これが「火蓋」です。
火縄銃ですから、火縄の火が直接火薬を爆発させる元となります。
火鋏(ひばさみ)に付いた火縄は、引き金を引くと、バネ仕掛けで、火皿(ひざら)に押しつけられる仕組みになっています。押しつけられると、火皿の火薬が発火して爆発します。その火力が火穴を通って銃身内部の火薬に引火してさらに爆発し、弾丸が銃口から飛び出す仕組みです。
火皿の火薬は、着火薬といえます。
火蓋は、火皿を覆う蓋なのですが、その役割としては、二つあります。
火縄の火が間違って火皿に引火しないための安全装置になります。
火皿の火薬が落ちたり飛んだりしないための覆いです。
銃口の下には、銃身に沿って、火薬や弾丸を詰める木の棒、朔杖(カルカといいます)が備えてあります。

以上が、火縄銃の構造を文章で説明した内容です。

■次に「火蓋を切る」とはどういうことなのかを説明しましょう。

<射撃までの動作について>
1  火縄銃には、火薬と弾丸を筒先から詰め込みます。腰に付けた火薬箱から、火薬を取り出します。薬莢はありません。粉の火薬をそこに詰めます。江戸時代になると改良されて、一射撃に必要な火薬と弾丸を筒状容器に入れておくものが開発されました。射撃速度を速める工夫だそうす。この容器を早合(はやごう)と言っていました。
 
2  銃口から火薬を詰めます。

3  火縄銃には、銃の鉄の筒の部分の下に、木の長い棒を収納する部分があります。この木の長い棒は、朔杖(カルカ)といい、銃口から込めた火薬と弾を押し込めるためのものです。朔杖で押し込みます。

4  銃口から火薬を入れることはどなたもご存じと思いますが、実は、火縄銃の射撃のためには、もう一カ所、毎回の射撃毎に別の火薬が必要です。これが、火皿に載せる火薬(着火薬)です。銃身内部に入れる火薬より少量ですが、火穴にも入っていける粒子の細かい火薬で、口薬(くちぐすり)と呼ばれていたそうです。

5  火皿に口薬を入れた後、火蓋を閉じて火皿を保護し、その後で、火縄を火鋏に付けて「打ち方用意」です。火縄を付けると撃つ準備が終了です。

6  このあと、構えて敵兵を狙います。そして、指揮官から「火蓋切れ」の号令がでたところで、射手は火蓋を切り(つまり、火蓋を開ける)、そして、「打て」で発射です。

 つまり、「火蓋を切る」とは、射撃の直前に、射撃体勢に入ることでありまして、それが転じて、「戦いが始まった」と言う意味になったのです。 引き金を引いて、バネ仕掛けで火縄が火皿に落ちた状態。本来ならここで、火皿の口薬が爆発し、火穴を通して銃底の火薬が爆発し、弾丸が発射されます。合戦では、鉄砲隊組頭の指揮 で二段構えで撃つようです。鉄砲が種子島に伝来した当時,日本は各地に群雄が割拠する戦国時代でした。いち早く鉄砲の戦略価値に目をつけた織田信長は,1575年(天正3年)5月21日,長篠の戦いに数百挺の鉄砲対を編成,武田勝頼の騎馬隊と対峙して,圧倒的な勝利を得ます。新兵器の出現で,これまでの戦闘方式を一変したことを知った群雄,武将は,急いで鉄砲の調達につとめ,国内の鉄砲鍛冶が盛んになりました。一挺の鉄砲が種子島に伝来してから約30年,驚くべき速度で普及したのは,日本の鈑金技術がきわめてすぐれていたことを示すものです。

※このように、古武道研究会では、レプリカの火縄銃を用いて実際に火薬を発火させるまでの模擬的な砲術稽古をしています。火縄銃の砲術教伝なども作成されています。

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≪古武道番外編・吹矢術≫


■吹矢道/吹矢術(参考資料)■

●吹矢と四半的弓道における身体運用法の類似点

日本における吹き矢術の発生は、まったく定かではない。吹矢には狩猟用道具として発達と、暗殺用武器術としての発達、娯楽用具としての発達の三種類が考えられる。

日本では弓矢を問わず、矢先に毒を塗り使用するという概念はありません。軽い吹矢での殺傷力には、おのずから限界があり狩猟用としての発達は記録に残っておりません。暗殺用としての吹矢術は、その性質上極秘裏のうちに伝承され稽古されたもので広く一般の知るところではない。
娯楽用としては江戸期から静岡県や愛媛県などで伝承があり、現在も吹矢道具を伝えているところが存在している。江戸期には盛り場の矢場などで、楊弓遊びと同じように吹き矢遊びが庶民の間の娯楽の一つとして盛んに楽しまれていた。

●日本スポーツ吹矢協会の制定吹射形

その大会の少し前から、日本スポーツ吹矢協会指定の吹射形が制定され、それを推奨し指導する吹矢の指導員制度が始まりました。

呼吸法に則した正しい吹射形が、正しい的中を生み出す。このような考え方で、吹射形が出来たようです。そもそも、的中競技である吹矢は、協会推奨の正しい吹射形で行射すれば、高得点がえられるという事ではありません。高得点を得ることが出来た吹射形が正しい合理的な吹射形であると考えるのが一般的に正当性があると思われます。

制定吹射形を作るとするならば的中率上位の吹き手の吹射形を参考に的中に関する普遍的な身体運用法を抽出し、呼吸法に合わせた吹射形にしなければなりません。古来より弓術、剣術、柔術の世界でも、その道に秀でたもののみがその術の形を作り出していきました。その形が合理的で優れていれば、それが後世に連綿と受け継がれていくものです。

●武術としての吹矢術

スポーツとしての吹矢は的中の得点を競う競技です。いわば記録の向上を主たる目的としその目的に向かって練習を積み重ねて行きます。武術としての吹矢は的中における術理を解明し、基本の技と心構えを身体運用法の形として作ります。その形を繰り返し修練を積み重ねて行くことにより、武術にも応用できる心身を作りあげます。十三棋道舘道場では、吹矢を単なるスポーツとしてではなく武道・武術の一つとしてとらえ吹術、吹射道と称し、四半的弓道と同じ講座で平行し教伝しています。

●吹矢と四半的弓道

吹矢と四半的弓道は、矢の形状が違いこそすれ的に向かって矢を的中させることを目的としていることは同じである。吹矢の場合は矢の推進力を得るものは人体の肺の圧縮空気であるが、弓道のそれは、弓の反動力である。吹矢における矢は弓道における矢と同じような働きをするが、
吹矢の筒は弓道における弓と同じではなく、弓道の矢に付いている矢羽と同じで、矢の方向性をつかさどるものである。このように吹矢の道具と身体の関係を考えると、吹矢の場合は弓道以上に呼吸法が大切な的中要素となる事が理解していただけると思います。

吹矢を行射する場合は、的に向かって先ず自身の足構えと体構えつくり、筒に矢を挿入して、呼吸法と身体運用法の調和を保ちながら安定した吹射の機会をつくり行射します。弓道ではこの形を射法八節として体系化しています。吹矢術吹射道の場合は弓道と同じくその吹射法を八節で表現いたします。

@ 足  心

A 体  心

B 矢  心

C 昇  心

D 天  心

E 満  心

F 離  心

G 残  心

●吹矢の威力を計測する貫通力実験

8メートルの距離から、1グラムたらずの吹矢の矢を使い、某テレビ局番の組制作スタッフの
 要請により、武器としての吹矢の貫通力を試す実験をおこなった。的は350ml入りの缶ビール(アルミニュウム製)を少々振った状態で、高さ85cmに設置し、吹手である弓刀吹将子は座射にて吹射をする。吹射直後に矢が缶ビールを貫通し、その衝撃で缶内の圧力が急上昇してタブが千切れ飛び、ビールが噴水状に天井まで吹き上がります。この他にも貫通力実験の的としてミカン・リンゴペットボトル等を実験したところ、時速150kmで飛翔する矢には想像した以上に貫通力があることが判明いたしました。

・以上、吹矢については、十三棋道舘道場の古武道としての「吹き矢道」から抜粋してご紹介させていただきましたが、関東稽古会の稽古目録にいれさせていただいています。

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≪娯楽弓戯の時代≫

■歴史考:江戸時代に一般都市庶民の娯楽弓戯の名称になっていた「楊弓」について

ところで武士階級との関係だけではなく、町方で一般に楽しまれた体育・スポーツ的活動はあったのでしょうか。もしもあるとすれば、それはどんな種目の、もしくはどのようなタイプの身体活動であったのでしょうか。
  当時、町衆を含んで何度も流行をみせていた身体活動の代表は投扇戯でした。たとえば1774(安永03)年4月以降に、江戸では内裏で投扇戯が好まれたばかりではなく、町なかでも流行しており、その流行は翌年以降までにも継続していました。この投扇戯はその後19世紀に至ってもしばしば流行し、それ故に禁止の対象ともなっていました。1808(文化5)年8月には賭けをして争いとなり禁止されたし、1822(文政5)年8月にも、江戸浅草寺奥山、御蔵前通、両国などの盛り場で流行していた投扇興行が禁止されています。江戸で都市文化の爛熟期であったとされる文化文政(1804前後)には、投扇戯は、京都や大坂などでも流行していました。
  1809(文化6)年に刊行の『投扇之記』には、このゲームのルールが、投げた扇と的の位置(形)によって図式と点数が定められているとか、投げた回数の点数を合計して勝敗をきめる等と、系統的に記されています。またこの扇の投げ方に関しても、 「....双方座きハまり,前後の礼式ありて,先手まづ青き扇を取上ケひらき 要の所を大指(親指)と人差指にてかるく持、向ふさがりに手を出し、花台を目当にして和らかになぐるなり....」 と説明されています 16) 。 この「和らかに投げる」という意味の表現は特徴的だと思います。この他、台と投席との距離は「四扇」すなわち扇4丈分とするとか、また的台の左右に座る記録役と判定行事役との位置、さらに投げる回数などにも触れられていました。
  この投扇流行の一方では、この投扇の原型となり、この投扇がこれを模倣して考案されたと指摘される「投壺」も、1775(安永04)年には京から流行していました。すでに1770(明和7)年には、列樹栄の『投壷指南』も刊行されていたが、投扇に比較して、礼式作法などが煩瑣(はんさ)で、酒席などでも即座に、あるいは手軽に出来なかったようで、文人や上流町人達の間で好まれました。この競戯では,壷を挾んでふたりが相対し,それぞれ12本の矢を投げました。
  江戸時代に主に一般都市庶民の娯楽弓戯の名称にもなっていた楊弓については、すでに元禄頃(1688〜1704)には、江戸,大坂などに「楊弓場」または「矢場」と呼ばれる競戯施設が多くつくられていました。一説では、京阪では「楊弓場」、江戸では「やば」といいました。「矢場」については、射る場所は畳敷きで、その先は的まで板間でした。畳に座って矢を射ました。また京阪には「半弓場」という独特の矢を射る施設もありました。これらは料金(矢の代金)をとって景物を当てる娯楽であり、また賭けも通常行われていたようです。
 そして競技的なコンテストとして、この「楊弓場」に「詰改」と称する機会があったことは特筆すべきだと思います。「詰改」は、毎年5月と9月に二回実施されていたようです。「番付」(ランク付け)がなされていましたが、それは、競い合う総矢数200本のうち50本以上当たれば「朱書」、100本以上当たれば「泥書」、150本以上が「金貝」,180本以上が「大金貝」とされていました。

■湯島天満宮境内の歴史に登場する「楊弓場」

湯島境内は、広重の「江戸百景」などの画題となり、湯島十景、また武州洲学十二景に「南隣菅祠」と題されている。
古く文明十九年(1478)堯恵法師の「北国紀行」には当時の風致をたたえている。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康公は湯島郷の内御朱印五石を社有として寄進した。
近世の縁日は、毎月十日・二十五日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した。
また富突は、今日の宝くじに当たり、谷中感応寺・目黒不動とともに江戸三富と称して代表的なものであった。文化九年には(1812)湯島天神は目黒不動とともに公許され、境内は熱狂した群集でわきかえった。
泉鏡花の「婦系図」の舞台として演劇に映画に歌謡曲に「湯島の白梅」の名を高らしめた。
江戸期から明治にかけて、例年七月二十六日夜の拝月は、遠近の老若男女が群集して雑踏を極めた。また二月十日の祭礼には、砥餅(ともち)と号し砥石の形に作った餅を神供に備え、氏子へも同様の餅を配った。
境内には売薬香具見世・楊弓場などが軒を連ねてあり、宮芝居が数度行われている。また文政七年(1824)正月境内で大相撲本場所も行われた。


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