飫肥藩奨励・戦国時代、戦国武将が伝えた弓術武道「四半的」の世界
■ 飫肥四半的・半弓術 関東稽古会 ■
「四半的弓道 関東稽古会」は、九州地方の伝統的弓術武道「四半的」の可能性を追及する現代流派です。
四半的(半弓術)の射法や古流体配の研究、また、剣術居合などを習得する古武道研究会です。

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  「四半的弓道 関東稽古会」は、伝統的弓術武道として四半弓(四半的)の可能性を追求する現代流派です。
Date: 2004-09-05 (Sun)
弓の歴史書や戦史などを紐解いでみますと、弓がどのように合戦に使われていたかもよく理解できます。時代の変遷を経て、日本では武士に武器として重んじられました。長尺の日本の弓は発射する形が美しく、やがて弓道として現代に伝えられ、武道として親しまれています。四半的弓道の分野においては、伝統とともに、新しい技の研究や稽古形を更新する上で「平成流古武道研究会」の中で四半的の部を発足しました。会員相互の親睦を目的にホームページを開設して情報交換をします。それは、新しい技への挑戦という意味も含めています。(宗家 牧 栄・支部統括師範 田中清治)

■四半的弓道の体配と現代流派「関東稽古会」について

四半的の射形は旧飫肥藩に伝わる日置流弓術の伏射の型(形)を取り入れ、的前斜面打ち起し(平成流は弓道形の正面打ち起し)として、正座姿勢による体配を正式としているようです。古流弓術、特に日置流を研究している方の中には、この体配にいささか疑問があると言われる人もいるようです。もっとも、四半的弓道として紋付袴姿の正式な行射を拝見したことがありませんので、詳細はわかりません。大会の写真や冊子等で拝見した射形は、自己流も含めてかなり個人差があり、統一された流派の形稽古のようなものはされていないようです。一般的には袴など稽古着を付けての武道の作法・形稽古よりも、「弓技大会」を主体に的当たりを重視している感じがいたしますが、平成流では、宮崎県四半的弓道連盟の冊子で解説されているものを正式な連盟制定形の射形と認識して、稽古形のひとつとして導入させていただいています。あとは、四半的の歴史・伝統から学んだ日置流の体配を古流形と定めています。

また、「四半的弓道」という名称すが、今日では「的中率を競う弓技スポーツ」の感が強くなっていると思えます。もともとの発祥が武術であることは事実ですが、現在となっては継承されている四半的弓道の流派・家元はすでになく、残念ながら江戸時代の泰平の世では、農民・庶民の弓遊戯になってしまったようです。現在の競技愛好者は年配者が大半で、「誰にでも簡単に出来る弓道」というところは大変評価できます。中には、ゲーム感だけが先行してしまい安易な方向に流れ、武道としての位置付けが希薄になってしまうのが心配という人もいますが、手軽にできる弓道だからこそ今も人気があるのではないでしょうか。四半的は、ゲートボールの弓技版という人もいますが、四半的の武道という一面を追求することも大切だと思います。「平成流」は、流派ではなく、私ども「古武道研究会」の名称と考えています。武道・武術としての要素を体配に残し、他流の弓術射法をカタチのなかに組み込み、射法や剣術形を私的に考案している古武道研究家の集団とご理解ください。私達、「研究会」では、居合、杖術、薙刀、種子島砲術、合戦兵法などを学んでいます。四半的についても「関東稽古会」は、弓術武道としての伝統を守り新たな可能性を追求していきます。




■関東稽古会として独自の稽古形を導入

四半的は、矢が長いので正座での射形(射法)はむしろ自然です。また、規定の競技姿勢なので、基本射法(飫肥藩日置流伏射の形)として必ず習得しておくべきです。あとは、弓術としての可能性を追求した射法・射形として個別流派で取り込んで稽古に励むことが大切です。「四半的 関東稽古会」では、斬新な平成流の形で稽古をしていますので、「平成流四半的弓道」と呼ぶ方もいらっしゃいます。正座射法では、「正面打ち起し」の他、坐射・立射・古流などを稽古形に取り入れました。近的を8.2mとし遠的も16.4mと定め、的位置や巻き藁の高さも射形により変えて、「初伝・中伝・古流奥伝」の中で、それぞれの形を習得します。また、平成流としての段位、演武の披露なども行います。正座姿勢の射法も弓道の「射法八節」に基づいています。初伝においては、本来の四半的の競技姿勢である「正座射」を基本形(連盟推奨正式行射)として稽古しますが、関東稽古会では、独自に研究した「射形」を「古流日置流・摂津流」もしくは「平成流」として加えています。(尚、当稽古会は「四半的弓道連盟」の組織系列とは関連しておりません。)

■一般的弓道について

一般的に弓道とは、弓で矢を射て、的を狙う武道のことです。昔は弓術といわれていました。競技は近的と遠的との2つに大分されます。近的は28m先の直径36cm(一尺二寸)の的に的中した数を争う的中制です。遠的は60m先の直径1mの的の中心を狙い得点を争う得点制です。矢2本を一手、4本を四ッ矢と呼び、これが基本単位になります。また射距離30m、的の直径36cmの得点制とアーチェリーのような、通称「中的」が近年登場しました。

和弓は蒙古形の長弓ですが、日本は弓の材料に乏しく、弓の寿命を長くするために約2.21m(7尺3寸)という他に類を見ない、非常に長い弓となりました。また、その長さから握りを弓の中心とすることが難しく、握りが弓の1/3の部分となったため、弓の形は単純な半円形にはならず、独特の美しい形となっているのです。

弓は古く狩猟の道具として発生、その後戦乱の時代には武器として長らく活躍しましたが、室町時代に鉄砲が伝来すると武器としての弓は衰退、徐々に武道としての弓が発達しました。四半的も旧飫肥藩が領民に奨励した弓術武道でした。

江戸時代には三十三間堂で、1日に何本の矢を通せるかを競う三十三間堂通し矢が流行しました。和佐大八郎が約13000本中8533本を通し最高記録を出して以降、各藩が競い合いましたが、出費がかさむという理由から通し矢は禁止されました。そして、この時の弓具の改良が後に大きな影響を与えるのです。

明治に入ると四民平等により武士の階級がなくなったことから、弓は平民の娯楽・弓競技として広まりましたが、武道としての弓は堕落していきます。特に半弓術(四半的)は、娯楽的な方向に流れていきました。

第二次世界大戦後、全日本弓道連盟の設立がGHQに認められると、射法制定委員により射法が制定され、それまでバラバラだった射法が統一されることになりました。そして、日本の伝統文化を継承する武道として発展していきました。(ただし全日本弓道連盟の射法として統一されたものであり、各流派の下での射法は異なることがあります)

■「真・善・美」について

弓道の最高目標とは、「真」(真実の探求)・「善」(倫理・礼・和平・平等の追求)・「美」(荘厳美の表現)であり、また、その目的とは、身体を強健にし、礼節・信義・克己・謙譲・大和等々の精神を養い、人格の陶冶に裨益し、生活内容を豊富にすることにあります。

「真」 弓における「真」とは「弓には誤魔化しは通じない」ことであって、矢は正しく狙った的に真っ直ぐに飛ぶから的中にも偽りはない。偽りのない射はどのようにあるべきか、という思いを持つ事も弓における真実の探求の一面であり、現在弓を射ているその大部分は「真実の探求」であるともいえる。弓における真とは、弓の冴え・弦音・的中により立証される。すなわち、一射ごとにこの「真」をもとめてゆくのが弓道(求道)の「みち」である。

「善」 ここで「善」というのは、主として弓道の倫理性を指す。弓道の倫理、すなわち礼とか「不争」とかは静かな心境のことであり、心的態度が「平常心」を失わないことが重要である。弓によって互いに親しみ、弓によって協同し、和平であること。心的にも平静を失わない境地が必要な条件であり現代の弓道の特性である。

「美」 弓における美とは何かといえば、「真なるもの」は美しく、「善なるもの」も美しい。これを具体的に表現しようとする射礼もその一つであろう。日本の弓は姿かたち自体がとても美しい。その荘厳性と人間の進退周還、それに静かな心的態度がリズミカルに動くことは、われわれの美的感覚を刺激するというところが大である。日本の弓は腕力による無駄な力を用いないで弓を押し開き、その中に身体を入れていくところに射の美しさがある。このことは日本の弓の特色だと言える。


  四半的弓道 射法稽古形
Date: 2004-09-02 (Thu)
四半的弓道の射形は、九州は旧飫肥藩に伝わる日置流(へき流)の伏射の形(型)を採り入れて、的前斜面打ち起しとし、射坐(この場合正坐と考える)による射法八節を定めたものです。八節は、実際は一つの流れとしてよどむことのないように行動を行わなければなりません。




■四半的の射矢姿勢は日置流「伏射の形」(正座)が基本

世界の歴史をみても、弓を持たなかった民族はいなかったといわれます。人の手で捕らえることのできない鳥や獣を捕獲するための道具として使用されていました。時代の変遷を経て、日本では武士に武器として重んじられました。長尺の日本の弓は発射する形が美しく、やがて様式化され弓道として現代に伝えられ、親しまれています。また、現在の四半的の競技は正座して矢を射る姿勢が基本ですが、弓術という点で分析すれば、当初は立射で教練されていたはずです。本来はいくつかの射法があったと思いますが、江戸時代になって武道の他に娯楽としての要素が強くなって、そのような形(正座姿勢)だけが残ったのだと考えられます。また、庶民の武術として推奨されはじめた頃には、いくつか流派があったようです。現在でも、その形や射法が受け継がれていますが、競技指向であるため確立されていないようです。

■「関東稽古会」の射法形は、正座射・立射・坐射・立膝射の4本と古流日置流があります(正座射:宮崎四半的連盟制定形準用)

戦国の世で、小型弓の特性を活かして武器として多いに威力を発揮したことは確かな事実ですから、実戦を想定した武術として考えれば立射 (Risha [Standing Practice] )つまり立ったまま矢を番える(つがえる:弦に矢をはめること)射形が基本になるはずです。実戦でも早く矢を射ることが可能で競技の進行も早いです。また、本来弓道には正座で射る形はなく、どちらかというと坐射 (Zasha [Seated Practice] )です。一度座って矢を番えるのが坐射で正式に弓を引く際に行われる射なので、審査や射礼時に行われます。(※座ったまま弓を引くわけではありません。膝をついて弓を引く技法は跪射(つくばい)と呼ばれ、日置流(へきりゅう:流派の一つ)の弓術として存在します⇒後に四半的弓道に影響したようです。昔の三十三間堂の通し矢などは、堂射といって正座射法が用いられます。

四半的は、矢が長いので正座での射形(射法)はむしろ自然で、規定の競技姿勢なので、基本姿勢(基本射法)として必ず習得しておくべきです。あとは、弓術としての可能性を追求した射法・射形として個別流派で取り込んで稽古に励むことも大切です。「平成流 四半的 関東稽古会」とも言われていますが、基本的には流派ではありませんので誤解のなきようお願いします。また、平成流としては、坐射・立膝射・立射や古流の稽古形を取り入れて、それぞれの形は、「初伝・中伝・奥伝」の中で習得されます。特に奥伝の遠的(16.4m)射法は関東稽古会(古武道研究会)としては独自の「弓術射法形」となり、規定外です。


■弓道流派の成立(解説)

源平合戦で、那須与一宗高(与一の意味は10に1与える、つまり11番目の子という意味)が、平家の舟に掲げられた扇を射落として敵も味方もその技を賞賛した話は有名で聞いたことのある人も多いと思います。実戦によって、弓の技術・弓具も更に研究されていき、革新的な名人の出現により、流派の発生の源がつくられていきしました。流派の成立ということを見て行く場合、弓射の古実的な面と技術的な面に注目しなければなりません。流派の起こりは、『日置流の祖』日置弾正正次が活躍した室町中期から後期が弓術流派の成立の時期であるとの解釈が一般的です。日本の弓術は射術の目的から分類すると歩射・堂射・騎射の3射法に分けることができます。いずれもその射術の目的を達成するために、長年に渡り、多くの先人が工夫研究を重ね、積み上げられた技術体系です。それぞれの射術は技術面のみならず、弓具においても目的に合った合理的なものが工夫研究され、今日の科学に照らし合わせてみると、先人の経験にもとづいた教えは驚くほど洗練されたものであることに驚愕します。

歩射は、実戦の場(戦場)において威力(貫徹力)のある矢を確実に目標物に命中させるための技術です。歩射射術は、15世紀後半日置弾正正次によって技術が体系化され、その後「日置流弓術」として栄え、九流七派(九流十派、八流七派、七流八派)といわれる多くの流派が発生していきました。多くの流派が発生、分派したとはいえ、歩射としての弓術の根本は皆同じものといえます。甲冑を着用した実戦の場(戦場)での射術から、時代が下がり素肌で弓を射るようになったこと、また新しい工夫、新たな考案、思想的裏付けの変化などにより、弓術に対する考え方などが改良されていった結果、多くの流派に分派していったと考えられます。堂射は、京都三十三間堂の縁の端から端まで一昼夜にわたり矢を射通す「大矢数」や「千射」「百射」「半堂」「継縁」などという競技的要素を含んだ射術が、江戸時代においてたいへん盛んとなり、その目的を達成するために改良工夫された射術のことで、「通し矢」という名称が一般的です。慶長11年(1606)浅岡平兵衛が51本を射通し、その後次々と記録が塗り替えられ藩をあげて天下一を争うようになりました。財力のある紀州藩、尾州藩、加賀藩などから多くの天下一が誕生しました。寛文3年(1669)、尾州藩星野勘左衛門、8000本(総矢数10、542射)、貞享3年(1686)、紀州藩和佐大八郎、8133本(総矢数13、053射)の記録が生まれ、現在は和佐大八郎(当時18歳)の記録が最高記録となっています。しかしながら尾州藩星野勘左衛門は残り時間が数時間もあるのに、ぴったり8000本で打ち止め、まだ余力があったと言われています。最初から『祝8000本』の幟をつくって臨んだそうですから、実力からみると星野勘左衛門が史上最高といえるでしょう。堂射は、矢を飛ばす空間が限られたもの(高さ5m、距離120m)であること、また、24時間引き続けるということから、矢飛びの良さや、射手の疲労をいかに少なくして射続けるかというところに射術の特徴があります。堂射も日置流系統の流派によって研究され、特に日置流竹林派はその技術、弓具面で深く工夫研究し、堂射における名射手を多く輩出しました。日置流竹林派は、日置弥左衛門を流祖としていますが、石堂竹林坊如成が日置家の祈願僧として、吉田出雲守重政(日置弾正から三代目)に弓術の教えを受けたという説もあり、いずれが正しいかは現在のところ研究の余地があります。また、この堂射の記録達成の為に工夫改良された弓具は、私達が現在使用している的前の用具にも大きな影響を与えています。一例を挙げますと、みなさんのゆがけは親指の部分が堅いですね。これは堅帽子といいますが、本来は鹿皮だけでつくられた柔らかい帽子であったものが、堂射の影響から堅帽子となり、それが近い的、つまり近的でも用いられるようになったのです。


■弓道流派 日置流

日置流印西派(へきりゅう いんさいは せっつけい)とは、日本の弓道の中興の祖といわれる日置弾正(だんじょう)正次公(1502年没)より七代下った吉田源八郎重氏(1561〜1638、法名:一水軒印西)を流祖とする流派です。 日置流は日置弾正公の没後、吉田流、道雪派、雪荷派、竹林派などに分派しました。印西派はそれらの中では最も新しく興った流派です。 印西派はその後江戸系(薩摩系へ),遠州系,岡山系等に分かれ、それぞれ各地に伝わりました。 摂津系は印西派十七代宗家・川島正晃(せいこう)師範が興されたものです。川島師範は、印西派遠州系十六代宗家・木下正芳(せいほう)老師に学び、昭和53年に免許皆伝を許され、同58年に遠州系より分派しました。(日置流公式HPより抜粋)

また、開祖である日置正次については非常に諸説多い人ですが、出生の地も大和(奈良)又は伊賀(三重)の人であると言われています、印西派では大和の人となっているようです。正次が活躍した時期は、応仁の乱(1467〜1477)が起こり各地に戦国大名が登場して、日本全体が戦乱に包まれていった時代です。正次は弓術修行のため諸国を遊歴し、中貫久{ちゅうかんきゅう(中てること、貫くこと、持続させること)}の悟りを開き、近江の六角佐々木氏の家臣である吉田氏を訪れ、吉田出雲守重賢に唯授一人の印可を伝えたとされています。その後、正次は再度諸国を遊歴して紀州(和歌山)高野山に入り、剃髪して瑠璃光坊威徳(るりこうぼういとく)と号し、1500年頃59歳(没年にも諸説あります。)で亡くなったようです。ちなみに飫肥藩における弓術指南は日置流でありましたが、「日置流=四半的の流派」ということではありません。ただ、半弓術としての射法は、朝倉流半弓術や佐々木流半弓術があるように飫肥藩日置流の中にもあったはずです。なぜなら、400年前の戦国時代に、伊藤(飫肥)と島津の合戦において伊藤方に半弓を用いる射手部隊が登場しているからです。

■戦場射法 薩摩日置流腰矢について

腰矢は射手の前方に敵陣と見立てた的を並べ、射手は交互に矢を射ながら前進していゆく戦場射法だそうです。月刊秘伝の解説によりますと、彼ら(弓兵)の後方にいる指揮者が適切な指示を出す。これは弓隊の集団戦闘の形式そのままである。弓隊を前後2段に分け前弓が矢を射る間に後弓が箙(えびら)から矢を抜き弓につがえる。次に後弓は矢を放ち終わった隣り合う前弓の前に出て射る。こうして前弓、後弓を交互に同じ動作を繰り返しつつひた押しに前進して行くのである。敵陣近くなると弓隊は手は敵の矢を避けるために伏せて素早く矢をつがえる様にする。敵の眼前に至るまで射続け、最後に槍隊と交代する。という記述ありました。

■腰矢・指矢の射法

腰矢指矢は十名からニ十名の射手の組弓が基本であるから、整った隊形で、大将の指揮の下、一糸乱れぬ規律のもとに、射法を行い、敵を圧倒する戦法である。織田信長の用いた鉄砲のニ段構えの戦法より考案されたものであろう。
(ア)指矢(数矢)
大将の号令で、横一列に並んだ射手は、折敷(左ひざをつき腰を落し、右ひざを立てる)の姿勢で、矢を矢つぎ早に発射して、敵を威圧・動揺させて、敵の気勢をそぐ。
(イ)押詰(前進)
奇数の射手は、体を低くした姿勢で一歩半前進して矢を放つ。その間に偶数の射手は矢をつがえ、三歩進んで矢を放つ。
左右両翼の者は前・横・後の敵に目を配りながら、その後は奇数、偶数組共三歩ずつ前進して、敵陣に肉薄していく。
(ウ)突撃
敵陣間近かに迫ると、押詰しながら身を更に低くして、矢をつがえ放ち、矢玉が尽きると、全員一緒に歓声を挙げて敵陣に突入するのである。
実戦向きの戦法として考案されたと思われるが、何せ矢の届く範囲が鉄砲の比でなく, また必殺の道具でもないことから、武術の鍛錬として今に伝承されているのであろう。(HPより)


  飫肥城下と「伊東義祐」の歴史探訪
Date: 2004-09-02 (Thu)
■ 九州戦国の城 「飫肥城」攻防戦 ■


南国宮崎県の中でも南部に位置する日南市。この町は昔から城下町が栄え、現在も国の伝統的建造物群保護地区としてその佇まいを残している。その中心となるのがこの飫肥(おび)城。伊東氏の城である。城は南北朝時代から築かれていて、日向国と大隅国の境界に近いため日向(伊東氏)・大隅(肝付氏)・薩摩(島津氏)の争奪戦が起きていた。三氏はいずれも古くからの名門で、互いの威信を賭けて戦ったが戦国時代にまず肝付氏が島津氏に降伏。北上してくる島津軍とそれを迎え撃つ伊東軍で激闘が繰り返された。この合戦の飫肥城攻防戦においては、伊東氏の領民達を主体とした義勇軍が編成された。彼等は「遊撃隊」として、手製の半弓を持参して島津の兵を相手に奮戦し、戦いを有利に導き民兵射手部隊が活躍したという記述がある。

■「小越の合戦」で四半弓を使った農民射手部隊が、合戦を勝利に導く・・。

永禄11年の「小越の合戦」がそれである。浮船城主の伊東義裕公は手勢2万余騎を率いて島津忠親の立てこもる飫肥城を奪還攻略すべく出陣した。島津側も領内に放っていた物見から、伊東勢の動きを察知、進軍する伊東勢を城の外で待ち伏せしようと、主力の軍勢を出陣させていた。さらに、城主の島津忠親の命を受けた、日置周防守は、ひそかに城を抜け出し、都城の島津時久に援軍と食料を要請していた。時久は直ちに軍勢6千で坂谷の陣屋に入り、番衆北郷図書助らと合流し、その勢力は1万3〜5千にもなっていた。城を包囲していた伊東軍であったが、このままでは、島津の援軍に背後から攻められることになる。すぐさま、軍勢を二手に分けて、ニ正面作戦に出たのである。しかし、一歩間違えれば、挟み撃ちになる危険性もあり、伊東軍にも緊張が走った…。島津軍の斥候部隊も伊藤軍の動きを察知して、河田の越にさしかかったところで、伊藤軍の迎撃部隊と遭遇するのである。

島津の援軍を迎え撃つ準備を整えて布陣していた伊東軍は、木脇越前守、落合源左衛門の率いる精鋭部隊である。まず木脇越前守の軍勢が先陣をきって攻撃を開始した。両軍ともにこの一戦にかけ、血しぶき上げてのすさまじい決戦であった。いずれが勝つとも見えなかったが、初戦で、伊東軍はその側面を島津軍数千騎に突かれてしまうことになる。主力の騎馬隊や足軽隊は敵陣で押し返される中も奮戦しているが、時間の経過とともに地の利に詳しい島津勢が有利となり、伊東軍は押される形勢にあった。後方が手薄な状態の中で、本陣に側面から突っ込んできた島津勢の一群に対処できるのは、篠ヶ嶺に陣取っていた猛将伊東新六祐基の後備えで、主力は編成されたばかりの義勇軍遊撃隊(農民射手部隊)と、配備したばかりの少人数の鉄砲隊だけである…。斥候から伊東新六祐基へ「島津の騎馬隊と思える一群が向かってきます!後には足軽隊が続いてる模様…。」という報告が入ってきた。また、落合源左衛門からの伝令も「落合殿苦戦…!敵の先陣が側面を突破、御油断召されるな!」という内容であった!伊東新六祐基は、「ふん、島津勢め、小癪な…」と呟いて、「全軍、陣を移す!」と家臣に伝え、背後に林を置く地形まで後退し陣形を整えた。そして、少ない騎馬隊を林の中に隠すように潜ませた。「遊撃隊弓兵は右備えへ、足軽槍隊は左備え側面に整列!」義勇軍を率いる武将山田国徳らの号令のもと弓隊が前面に整列し、その後方二手に分かれて少数の鉄砲隊が並んだ。遠くから合戦の雄叫びが聞こえてくるが、周囲は静かであった。すると、林の中から数羽の鳥が飛び立った。まもなくドドドッという轟音とともに島津勢の騎馬隊が現れた!「放て!」突撃してくる島津の軍勢に対して四半弓での遠矢が一斉に放たれる!ものすごい矢数に島津の軍勢も怯んだが、騎馬武者は矢を掻い潜って、射手部隊の目前に迫った。

・半弓の特性を活かして鉄砲隊と行動、奇襲攻撃で敵を撹乱!

射手部隊は草叢の中に身を伏せながら至近距離で、四半矢を放っていた!「飫肥伊東家の日置流半弓術・伏射の形である」騎馬武者は顔面や首を狙い撃ちされていたが、ヒュンヒュンと矢が草叢から飛んでくるだけで射手の姿が見えなかった。射手は矢を射ると這うように移動し、敵兵の至近距離まで接近して草や低木の影から矢を放つのである。「ええい敵はどこじゃ!隠れて矢を放つとは卑怯なり!」島津の武将が刀を翳して叫んだその時、後方で狙いを定めていた鉄砲隊が一斉に火を吹いた。「ドドーン!」多くの騎馬武者が撃たれて落馬、そこに槍部隊が襲いかかる。島津の後続足軽隊が到着したが、そこにも射手部隊が容赦無く矢を仕掛ける…。同時に機を待っていた伊東勢の騎馬武者も林の中から突撃した…。どこからともなくヒューンヒュンと飛んでくる矢の合間に鳴り響くドドーンという鉄砲の音に兵は怯え、島津軍も一旦退却するのである。騎馬隊、槍隊が後を追うが、「深追い無用、それまでー!」の号令がかかった!そして「ヤーソレソレ、アータルワー、勝った勝った!」と喜ぶ遊撃隊の掛け声の後に、島津軍は敗走した。その後も農民射手部隊と鉄砲隊は数人単位が組みをつくり、林や草むらに潜んで島津の小隊を次々と奇襲する戦法を展開した。遊撃隊が所持した弓は半弓なので、岩陰、草むらなどに隠れて、身を伏せて矢を射ることが可能であった。また、射手は、4〜5人が一組になって一人の敵兵の顔面を狙い射るのである。この射法が後に四半的射法に伝わる「伏射の形」ではないかと言われている。そして、側面の防御に成功した義勇軍は、河崎河内守、河崎紀伊守らの主力部隊とも合流し、島津の援軍を完全に釘付けにしていた。さらに木脇越前守らの別働隊が阿由越から小越を経て島津時久本陣への奇襲攻撃に成功した。援軍は大混乱となっていた。そうこうしている間に、伊東伊賀守と山田二郎三郎は全軍を率いて正面突撃し大勝利するのである。

この戦いで、島津勢は、酒谷城主・柏原常陸守、勝岡城主・和田民部少捕、若松新二郎を始め、名立たる武将65人、侍・雑兵800余人を討ち取られた。その直後、時久の援軍が総崩れとなって退却したという知らせを受けて、手薄になった飫肥城を伊東義祐軍が総攻撃をかけて攻略、奪還するのである。この戦いで側面を守っていたのは、伊東方の義勇軍遊撃隊であったが、島津勢は、飛んでくる矢の多さに、強力な弓部隊が存在すると思い込んで退却したといわれている。この時使用された弓が「四半弓」である。半弓ではあるが改良された四半弓は、至近距離で甲冑を貫通させるほどの威力があり、義勇軍射手部隊(遊撃隊)も充分な訓練を積んでいた為、その狙いは驚くほど正確であった。その後の戦闘では敵の補給部隊を急襲したり、火矢を仕掛けて夜襲をおこなったり、義勇軍は多いに活躍したと伝えられている。彼らを組織した猛将伊東新六祐基は、日頃から領民に慕われ、思いやりのあるやさしい郷主でもあった。いつしか農民、百姓達は、彼を信頼し伊藤の殿様に報いることを誓い、その多くの民が義勇軍に志願したのではないかといわれている。

こうして島津氏を圧倒し、日向国内に四十八の支城を構えた義祐は、伊東氏の最盛期を築き上げた。ところが義祐は、それをいいことに次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、武将としての覇気を失ってゆくようになる。そして1572年、相良義陽と連携して島津氏を攻めた際に、伊東側(大将は伊東祐安)は3000の軍勢がありながら「木崎原の戦い」にて、わずか300の島津義弘が率いる寡兵に大敗するという失態を犯してしまう。伊藤家はこの敗戦で「伊藤崩れ」と呼ばれるほど没落、その後の戦でも伊藤方が不利になり、城主伊東義祐(いとうよしすけ)は豊後国の大友氏を頼り逃亡。大友氏も「耳川の合戦」で島津氏に大敗。伊藤一族は僅かな側近だけで四国、伊予へ逃れるが貧窮した生活をおくることになる。その後、嫡子伊東祐兵が堺で豊臣秀吉に接近し秀吉の家臣となる。伊東祐兵(いとうすけたか)が秀吉の九州征伐に従い見事飫肥城を奪還したのは天正16年のことであった。以後伊東氏5万1千石の居城として明治維新まで存城した。(史実を元に一部フィクションで構成されています)


今も残る飫肥城の石垣に歴史の重みを感じる。



■戦国武将 伊東義祐の戦い■

伊東氏  家紋・庵に木瓜(藤原南家為憲流)

 藤原南家武智麻呂の後裔に維幾が出、その子為憲は木工頭だったことから工藤を称した。その曽孫にあたる維職が伊豆横領使に任ぜられて、宇佐美・伊東・河津の三荘を領した。そして、伊豆国伊東庄に住み伊東氏を名乗ったのがそもそもの始まりという。宇佐美・河津に住んだ一族もそれぞれ宇佐美・河津氏の祖となっている。
 その後、祐継(次)・祐家の兄弟のとき二流に分かれ、祐継は伊東を称し、その子の祐経は工藤を称した。一方の祐家の子祐親は河津を称した。そして、祐経の流れが日向に地頭職を得て、日向伊東氏となるのである。


●南北朝の争乱

 やがて後醍醐天皇による元弘の変によって、鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政が発足した。しかし、建武二年、鎌倉に下った足利尊氏が新政に謀叛旗を翻すと、祐宗の孫にあたる祐持・祐藤、祐持の子祐重、一族の祐熙ら伊東氏一族は足利尊氏に属した。そして、祐持は勢田の戦いなどにおいて活躍し、尊氏から勲功賞として日向国児湯内都於郡三百町を与えられた。
 日向に下向した祐持は都於郡に城を築いて本拠にすると、畠山直顕にに属して日向の宮方と対峙した。やがて、南北朝の争乱時代を迎えると、日向では肝付兼重、伊東氏一族の木脇伊東祐広らが肥後の菊池氏と結んで勢力を有し、祐持は土持氏とともにこれと争った。
 建武三年二月、京都を追われて九州に落ち延びた尊氏は、多々良浜の合戦に勝利すると同年四月再び東上した。このとき祐持は尊氏軍に加わり、経島・湊川の合戦に参加して功があったという。そしてこれらの功によって、尊氏から形勢不穏な日向の国に下向させられたが、貞和四年(1348)六月、祐持はふたたび上洛し京において死去した。
 祐持の死後、嫡男の祐重が日向国に下向したが、このとき、一族の長倉・稲津・落合らが従ったという。その一方で、一族の祐熙との間で家督をめぐる争いがあったようだ。さらに、叔父の祐藤が伊豆の所領を押領し、南朝方に転じ、結果として伊東氏は伊豆の本領を失うことになる。その後、祐重は尊氏の一字をもらって氏祐と名乗ったが、南朝方勢力、庶子家との戦いに終始した。
 やがて、国人領主らが氏祐の幕下に属するようになり、都於郡の四天衆と称される山田・荒武・津留・大脇の四氏も氏祐に従うようになった。南北朝の争乱に加えて観応の擾乱が勃発して、さらに世の中は混乱したが、氏祐は一貫して尊氏に味方してその立場を明確に示した。また、都於郡を押えていた守永野州の婿になるなどして、着々と勢力を伸長させていった。

●打ち続く争乱

 ところで、興国三年(1342)、征西将軍宮懐良親王が薩摩に上陸した。谷山城を拠点とした懐良親王は、正平三年(1348)、九州南朝の中心をなす肥後菊池氏の本拠である隈府城に入った。以後、懐良親王を奉じる菊池武光と菊池一族の活躍によって、南朝方は次第に勢力を盛り返していった。そして文和二年(1353)、筑前針摺原で武家方を破った菊池武光は北九州を制圧下においた。
 その後、少弐氏、大友氏らが征西宮に抵抗を示したが、正平十四年(延文四年)の大保原の戦いにおいて、少弐氏は壊滅的敗北を喫し、同十六年、ついに征西宮は太宰府を占領した。以来、応安四年(1371)まで、征西府は全盛時代を現出するのである。
 九州宮方の隆盛を重くみた幕府は、応安三年、今川了俊を九州探題に補任して征西府攻略を図った。幕府の期待を一身に担う了俊は、弟の仲秋、子の義範らを従えて九州に入ると、九州諸勢力を懐柔、翌年には太宰府を回復した。まことに見事な手並であった。氏祐は了俊に応じて、『日向記』によれば、応安四年、豊後佐伯蒲江出陣、同五年、肥後、同六年、宇目長領打入、永和元年(1375)九月、肥後水嶋の陣に加わり、同二年の小城の戦いで軍忠をなしたとある。そして、永和四年(1378)、氏祐は三納の陣中で合戦に明け暮れた生涯を閉じた。
 その後、了俊と対立した島津氏が南朝方に転じるということもあったが、のちに島津氏はふたたび武家方に転じ、南九州における武家方の勢力は動かぬものとなった。かくして明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり半世紀以上にわたった南北朝の争乱も一応の終息をみせた。さらに、九州探題として辣腕を振るった今川了俊も探題職を解任され、京都へと帰っていった。
 こうして、南九州の政治情勢は一変することになる。これまで、紆余曲折があったとはいえ、武家方として活躍してきた伊東・島津・土持の三氏の間で争いが展開するようになるのである。

●戦国時代への序章

 日向国の守護は、暦応元年(1338)島津貞久、応安八年(1375)島津氏久が補任され、一時畠山直顕が補されたこともあった。伊東氏も守護の地位を望んだが、それが実現されることはなかった。了俊が去ったのち、島津氏は日向支配を実質化しようと動き出した。
 土持氏は日向において、日下部氏につぐ古代以来の豪族であった。そして、県、財部、清水、都於郡、大塚、瓜生野、飫肥に割拠して「土持七頭」と称されて、確固たる勢力を築いていた。早くからの武家方であった土持氏と新興の伊東氏との確執は、はじめは少なかったと思われる。しかし、伊東氏が惣領を中心として勢力を拡大してくると、次第に土持・伊東両氏の確執は表面化してきた。
 応永四年(1397)、島津氏久は清武城を攻撃した。これが伊東氏と島津氏との本格的な抗争の始まりとされ、島津氏と伊東氏との争いは、天正五年(1577)伊東氏が日向を追われるまで続くことになる。他方、日向国山東に一揆が頻発するようになり、さらに島津氏との対立も深まっていったが、祐安と祐立(すけはる)父子はよく領内の安泰をはかった。やがて、島津氏に内訌が生じたが、応永十一年(1404)に島津元久が日向守護に補任され内訌は終結した。
 応永十九年、大淀川南の曽井・源藤に島津軍が侵攻してくると、祐安・祐立父子は曽井城に籠城してこれに抵抗した。ついで、同二十二年に島津軍は跡江にが侵攻し、同二十六年には加江田車坂城に島津軍が攻撃をかけたが、伊東方はこれを撃退した。まさに、島津氏の執拗なまでの伊東氏領侵攻が繰り返された。その間、祐安の娘が島津忠国に嫁いでいるが、両者の抗争はやむことはなかった。
 永享四年(1432)六月、島津軍は六野原に侵攻、翌七月には河骨において島津方と伊東方の戦いがあった。永享六年に祐保が死去したが、島津勢が木脇に侵攻したため、祐立は土持氏の同意を得て出陣、木脇却生寺で合戦が行われた。その後、しばらく平安が続いたが、文安元年(1444)、上洛の途中にあった祐立は播磨国において死去した。
 祐立の嫡男祐武は早世していたため、嫡孫の祐堯が家督を継いだ。しかし、祐立の後継の座をめぐって内訌があったようで、祐立から祐堯の間の系図が混乱を見せている。たとえば、祐堯を祐立の子とするもの、あるいは、祐武には三人の子があって、嫡男の祐家は弟で三男の祐郡に殺され、その祐郡も肥前国に逃れたため、次男の祐堯が相良氏の家督となったとするものなどがある。いずれにしろ、祐堯が家督を継ぎ、土持氏から室を迎えことが知られる。

●戦国大名への途

 伊東氏は祐堯・祐国二代のころから次第に強大となり、伊東氏全盛の基礎がつくられた。祐堯は永享十二年(1440)〜宝徳二年(1450)にかけて、川南の曾井城、石塚城を中心に支配領域を拡げ、日向侵攻を繰り返す島津氏を山西に退けた。
 伊東氏が勢力を拡大してくると、土持氏との間いは不穏な空気が流れるようになった。伊東氏を警戒するようになった土持氏は島津氏と結ぶようになり、ついに康正二年(1456)、祐堯は土持氏と戦い、翌長禄元年(1457)に財部土持氏を旗下に入れた。これにより、財部・新納高城・門川・新名・野別符・神門の諸城を受取、財部には落合民部少輔を地頭として配置している。
 文明十六年(1484)、島津氏に内紛が生じた。飫肥城の新納忠続が島津忠昌に請うて、櫛間の島津久逸を他所に移そうとした。これに反発した久逸は伊東氏に援軍を求めて忠続を討とうとした。久逸の要望に祐堯は応えて嫡男祐国とともに出陣、飫肥を攻撃した。ところが、この陣中において祐堯は死去してしまった。翌十七年、祐国は弟祐邑とともに、ふたたび飫肥攻めの陣を起こした。これに対して島津忠昌はみずから軍勢を率いて出陣、両軍は楠原で激突し、乱戦のなかで祐国は戦死し伊東軍は多数の戦死者を出して敗退した。
 こうして、祐堯、祐国と相次いで当主を失った伊東氏だが、祐堯、祐国の代に南の飫肥・櫛間・三俣(庄内)、北の県(延岡)・高千穂、西の真幸院を除く、日向国を一円支配する存在に成長した。祐堯、祐国の代において、伊東氏の最大領域に近い版図ができたようだ。
 祐国の死後、その後継の座をめぐって内訌が生じた。祐邑は祐国の嫡男尹祐に代って家督を狙ったとして、外戚野村氏によって日知屋において殺害された。そして、文明十八年には野村右衛門佐父子と野村一族が断罪された。野村氏の乱と呼ばれる内訌で、尹祐が相良氏の家督を継いだ。尹祐は父の復仇を期して三俣院進出を企図していたが、豊後の大友氏が島津氏と伊東氏の和睦をはかり、明応四年(1495)、忠昌は三俣院千町を割譲して両者の和議がなった。
 三俣を手中にした尹祐は永正元年(1504)、梶山城を攻撃し、さらに都城に兵を進めたが、北郷氏によって撃退された。永正七年、福永祐晒の策にのせられた祐尹は、一族譜代の臣である長倉若狭守と垂水但馬守を綾城において殺害した。綾の乱と呼ばれる争乱で、伊東氏内部には動揺が続いた。

●繰り返される内訌

 大永三年(1523)十一月、伊東尹祐は北原久兼と連合して野々美谷城を攻めた。城は落したものの伊祐がにわかに陣中に没し、十二月には弟の祐梁が死去するという事態となった。若年の祐充が家督を継いだものの、外戚福永氏がその後見役として出頭、福永氏は祐充・祐清(のちの義祐)・祐吉三人の外祖父として勢を伸ばし、守護方と称した。これに対し、譜代の家臣稲津重由を頭と仰ぐ「若キ衆」方との抗争が享禄四年(1531)に起こり、結果、若キ衆方の多くが都於郡を追われた。
 家中の内紛が続くなかの享禄元年(1528)、伊東祐充は新納忠勝を降すと威勢をあげた。対する北郷忠相・島津忠朝らは北原氏と結んで、天文元年(1532)十一月、三俣院に兵を出した。連合軍は並進して高城城下に迫った。伊東方の三俣八城の諸城は兵を挙げて高城の救援に駆け付け、両軍は不動寺馬場において大会戦となった。伊東方は防戦につとめたが、ついには三俣院を失う敗戦をこうむった。
 翌天文二年(1533)、祐充が早逝すると祐充の叔父祐武は福永氏を切腹させ、さらに祐清・祐吉を都於郡から追った。かくして、またもや内紛が生じ、祐清・祐吉は財部・日知屋・塩見・門川の衆に支えられ祐武と対立した。重臣荒武三省らの奔走で祐武は切腹させたが、米良十二ヶ所の一揆衆が祐武の嫡男を擁立する企てがあり、荒武三省は一揆衆と野別府原で戦った。この騒動のなかで、一揆衆が城内に乱入し、荒武三省ら多くの武士がが討死した。伊東氏は繰り返される内訌によって、多くの有為な将士を失い、協力な結び付きにもひびが入り、それがのちの伊東崩れを起こす遠因の一つとなった。
 天文五年(1536)、祐吉が宮崎で早世すると出家して富田に引き蘢っていた祐清が、還俗して佐土原城に入り家督を継いだ。祐清はのちに義祐を称し、戦国大名伊東氏の全盛期を現出するのである

●戦国大名-義祐

 伊東氏の当主となった義祐は、南大隅の肝付氏と結んで、飫肥城の攻略を計画した。天文十年(1541)、長倉能登が飫肥兵を誘って、山東で乱を起こしたのをきっかけとして、以後二十八年間において、伊東・島津両氏は八回の戦いを繰り返した。そして、永禄十一年に至って島津忠親は城を伊東氏に明け渡し、念願の飫肥城攻略を実現した義祐は祐兵を城主として守らせた。
 義祐は永禄三年に家督を嫡男の義益に譲っていたが、同十二年に義益が早逝し、嫡孫義賢が幼少のため義祐がふたたび国政をとった。
 飫肥城を支配下に置いたことで、義祐は日向四十八城の主となった。さらに、禰寝・肝付・伊地知・新納・本田・北原・入来院・祁答院・東郷・菱刈・相良の諸氏が好を通じてきた。まさに、伊東氏の絶頂の時代であった。

飫肥城大手門


■九州における伊東家最後の戦い「耳川の戦い」

耳川の戦い(みみがわのたたかい)とは1578年に大友宗麟軍と島津義久軍が日向高城川原を戦場として激突した合戦。「高城の戦い」とも言う。発端は、1577年、日向の大名伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、友好関係にあった大友氏に身を寄せた。これをうけ翌年、大友宗麟は宿敵・島津氏と決着をつけるため五万の大軍を率いて日向への遠征を決定する。大友家内部では、宗麟の狂信的なキリスト教への没頭などから家臣団との間に不協和が生じていた。立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。

※飫肥城下/飫肥藩の情報↓

http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/sub1.html

http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/satsumaitoh12.html

http://www.nihonkai.com/yuu-mi/ca-mi/ca-mi-obi.html



  天満宮道場(関東稽古会支部道場)
Date: 2004-09-02 (Thu)
天満宮会館道場では、休日の朝稽古などを開催しています。下町の弓道場として親しまれています。

※現在は月例稽古会として隔月で射会のみ開催してます。 (客員を招き古流の形稽古になります)


http://www.rak3.jp/home/user/tenmanguu/       

■「四半的弓道 関東稽古会/平成流古武道研究会」

日本の文化、伝統的武道を研究する古武道研究同好会から発展したと聞いています。杖術や居合・剣術、そして四半的弓術を採り入れて稽古活動を行なっています。四半的は、宮崎県日南の無形文化財です。弓術武道としての四半的流派や家元・宗家というものは残っていないようです。特に関東ではあまり知られていないようです。九州一帯の弓技スポーツとして、愛好家も多いのですが武道というよりは、弓技となっています。九州では宮崎、熊本、鹿児島県に四半的弓道連盟があり、弓技大会も盛んと聞いています。関東では、府中市に府中市四半的弓道連盟があります。そちらも多くの愛好者達が集まって盛況です。年に何回か弓技大会なども催されています。

四半的は、歴史的には、400年前の戦国時代から伝わる弓術武道なのですが、今では射形も正座射法だけしか残っていません。文献などを調べますと、その正座射形は、日置流(弓道の流派)の「伏射の型」というものだそうで、実際には片方の膝だけをつける「つくばい」と呼ばれる射形が変形したようです。それが太平の江戸時代に入ってからは、武道としての流派や家元も無くなって、庶民達の弓遊技になってしまいました。ですから、その辺からしても武道としての稽古形が崩れてしまっているようです。もともとは飫肥藩城主の伊藤氏が農民や庶民にも武道推奨させたのが、今に伝わっているのです。四半的(半弓)の歴史をふりかえると、戦国時代の名のある合戦にも登場しています。農民の射手部隊の活躍や、それを指揮した武将(伊藤新六祐基)も実話に出てきますので、研究すると時代小説になるような楽しさもあります。弓術武道として分析すると、四半的もいろいろな可能性が考えられます。

私たちは、そうした可能性を稽古形に組み入れた「古武道研究会」なわけですから射法については、弓道流派の射形を調べて参考にした独自の射形があります。ただ、武家時代においても関東武者の間では、こうした「四半弓」というものは存在していなかったようです。特徴ある長い矢というのも、狙いやすさを目的に民兵が開発したか、それらを指揮したとされる飫肥伊藤家の武将が考案したのではないでしょうか。その昔、岩陰や林に隠れての「打ち下ろし」いや「射り下ろし」⇒つまり、高い場所に構えて、下にいる敵兵を狙って攻撃したのではないかと考えられます。「卑怯ではないか!」と思いますが、もともと武士ではない農民出身の射手部隊でしたから、なんでも有りなんでしょう。これでは、伊藤軍と戦った島津勢もたまりません・・。

■四半的弓道と日置流

弓術武道としての四半的は、九州が発祥ですが、大阪や長岡などにも四半的弓道サークル(同好会)がありまして、我々のように個人的に研究している人もいるようです。宮崎県日南市の飫肥(おび)城下では、城主の伊藤家が庶民に武道を推奨していたとあります。江戸時代になってから、飫肥藩での弓術指南は、やはり「日置流」が主流という記録がありますが、確かに四半的の射形というのは、その「日置流」の影響を受けているようです。

天満宮道場と東京武道館では、合同稽古会が開催されています。関東稽古会として四半的の射形も完成されて、それをもって当会も稽古形といたしました。私達は、四半的(弓)の可能性を追求した現代流派で居合・剣術形も導入しています。古流形稽古が中心ですが堅苦しい作法も少なく(もちろん礼法はあります)関東流の四半的弓道になっています。女性や若い人達の参加が多いのも当会の特徴です。日本の武道の伝統・文化を伝播する上では「競技大会」も重要ですが、それだけでは浸透していかないと思います。道場での形稽古では、一般的な弓術武道としての「的前正面打ち起こし」の射法や、古流日置流の「的前斜面打ち起こし」射法、また、居合・剣術形などを取り入れた「独自の武道稽古形」を追求していきます。

現代版の流派ではありますが、「平成流古武道研究会」というサークルです。平成流とは基本的には会の名称扱いです。象徴として主幹や宗家の存在も必要と思います。実際に流派が存在しない武道は、ルールのないスポーツと同じ考えから現在、九州の歴史研究家でもある 牧 栄氏と田中師範が400年前の合戦の歴史や武道作法・射法などを研究しています。平成17年度は田中師範代も宗家代理を務めます。「発足時は、親睦団体である「天友会」の協力も得ら「平成流四半的弓道」という名称でしたが、昨年「関東稽古会」に改名されています。これからも、「四半的弓道 関東稽古会/平成流古武道研究会」にご期待ください。ca*57*20@infoseek.jp(*2*0)

↓天満宮道場URL 関東稽古会支部道場の活動を紹介します!

http://www.rak3.jp/home/user/tenmanguu/



  四半的の競技規定
Date: 2004-09-02 (Thu)
規定競技における団体戦は3〜5人が1組みになり、各チームの的中率(1人10射×3回)で競います。個人戦は、30矢行射した中で、的中数の多い者が勝者となります。同数の場合は、二寸的や一寸的で1射、もしくはスジ的で決定戦を行います。

We have individual round and game with group (3-5 sets) in a competition of a quarter mark. It is a competition five one team forms a line in one line of side, and to shoot an arrow basically. It is other teams and play fighting it out war. I play at a hit rate of an arrow in total of all the teams, but will shoot an arrow of ten *3 times per one.




■四半的の競技規定■

■基本的にはチーム競技(3〜5人)
 
個人戦と団体戦(5名一組)があります。基本的には1チーム5名が横一列に並び矢を射る競技です。他のチームと対戦勝ちぬき戦です。チーム全員の合計矢の的中率で勝負しますが、一人あたり10本の矢を射ることになります。(大会は各地で連盟・協会が主催、参加者も多いようです)
関東稽古会は、形稽古主体ですが、競技としては、矢は一人1本、10本×3回で規定に添って行ないます。模擬競技では5本×3回・15射と、半分で進行する場合もあります。形稽古では射矢は2または4本です。形の審査では射矢の中で半数的中していなければ審査失格です。

■勝敗の決め方
 
規定競技における個人戦は、30回行射し、的中数の多い者が勝ちとなります。同数の場合は、二寸的1射で決定戦を行います。2回行って決まらない場合は、スジ的を使用し、中心に近い者の勝ちとします。(簡略した模擬競技では15回の行射にすることもありますが、進行は宮崎県四半的連盟競技教本に準じた規定の内容に合わせて行います)

個人礼射であれば、稽古形ごとに1行射して、形の内容と的中率を判定することも可能であり、流派別もしくは、種目別(射法別)に審査規定を設定することも可能です。

規定の団体戦は、一人が30回行射し、的中数の合計が多い組が勝ちとなります。同数の場合は、三寸的1射(一組5射)で決定戦を行います。決着がつくまで行います。個人はスジ的です。

■団体競技の進め方(規定競技の内容)
 
(1) 3〜5人一組とします。

(2) 行射の順序を決めます。30射終わるまで変わりません。(※関東稽古会の略式では15射の場合もある)

(3) 射位における相互の間隔は、3mに5名です。

(4) 使用する矢は1本です。各自10射して交代。これを3回繰り返します。

(5) 審判員と競技者は、行射の前に、5番射手の合図により礼を交わします。

(6) 競技者は射位に入ります。

(7) 主審の「サグリ矢1本、始め」のコールにより、全員が必ず試射を行います。

(8) 全員が射終えると、主審が矢取りを行い、矢が1番射手に渡されるので、自分の矢を取り残りの矢を次射手に渡します。

(9) 主審の「1射目始め」のコールで競技が始まり、以後、「2射目」、「3射目」と主審のコールで進めます。

(10) 5番射手のかけ声「さあ、いこう」で競射を開始します。(平成流は「始め!」です)

(11) 10射目のときは、主審から「立ち矢です」のコールがあります。(※略式は5射目)

(12) 1射ごとに主審から当たり、はずれのコールがあります。
   副審が、主審の判定を復唱し、玉字方式により記録します。

(13) 10射が終了した時点でスコアの確認をします。(※略式は5射で終了)

(14) スコアの確認後、5番射手の合図により礼(揖)を交わします。

以後、2回目、3回目と競技を行い、合計30射で競技全体が終了します。(略式では全て半数の行射回数で進行しますので、合計15射で競技終了です。時間も短縮できます)

 得点=1射から10射の内、何射が的中したかを記録します。

■関東稽古会の試合と競技形式について■

■形試合

関東稽古会では、形試合があります。2人が同時に射場に入り、同じ形で演武して、射矢に入ります。審査は演武内容と矢の的中本数で決めます。古流形弓術と剣術居合の稽古形演武に重点がおかれます。
形試合は段位に関係なく参加できますが、錬士が習得すべき奥伝の中にある「立射矢番へ」(四半矢を用いる)は、正座射を習得してからの演武・稽古形になります。形試合で使用できる矢数は2本です。2本的中でさらに演武内容で判定されます。(古流射法や居合・抜刀術のポイントが高く、審査は的当たりではなく足さばきや体配、演武内容のポイントが高くなります)

■正座射形の対抗試合(関東稽古会)

持ち矢10本の的中率で勝敗を決めます。基本的には的当たりですが、上段者が多い場合は小型の2寸的を使用します。男女混合の勝ち抜き対抗試合になります。

■組み試合

2人(または3人)が組んでチームでの対抗試合形式で行います。各自10本ずつ2寸的を射矢をして、そのチームの的中率(合計点数)での勝敗です。(立射では行ないません)

※尚、[四半的弓道 関東稽古会]では、これらを「古武道研究会」として考案しています。当会のみで執り行うもので、公式に定められている「競技種目」ではありません。


  関東稽古会「奥伝」稽古形:古流(日置流印西派)体配について・・。  解説: 弓刀吹将子先生
Date: 2004-09-01 (Wed)
■四半的弓道の古流射礼(摂津流)

四半的弓道の射礼を日置流印西派日置當流浦上同門会の体配を準用し、古流弓術武射の要素を加味し、弓刀吹将子先生が考案した「摂津流・甲矢乙矢一手」の体配です。この射法については、演武稽古形であり、関東稽古会では「奥伝」扱いにしていますので、上段者向けの稽古形として推奨しています。


●まず右手に矢を持って左手に弓をもち「執り弓の姿勢」にて、左足から射場に入り3足目で上座に「揖」をしてそのまま射坐に進みます。射位の手前まで摺足で進みます。


@ 「執り弓の姿勢」で射場入場。射坐にて脇正面に立つ

・執り弓の姿勢とは…。
   ・正しく立った姿勢、又は跪坐した姿勢で両手に弓矢を持った姿勢の事
   ・左手で弓の握りを持ち、弦を外にして両拳は腰骨の辺りに付ける
   ・弓の末弭は身体の前面中央で、床上の位置(大弓では床上10cm)に保持する(跪坐した時には床に着く)
   ・矢は右手の小指と薬指で持ち、矢先が弓の末弭に向かい、二等辺三角形となるようにする
   ・弓と矢は水平面に対して同じ角度にする



A 跪座(古流武射では左膝をつけ右膝をたてる)


B 跪座にて一礼(脇正面に向かい跪座にて一礼をする)

そこから左、右、左と三歩で射位に入り、三歩目の左足は脇正面に向け、右足寄せて脇正面に構える。この時、弓手は三歩進む間に、弓を持った左手で弓の鉾先を的正面の敵に突き刺すがごとく持ち上げながら(床面と弓はほぼ水平)進みます。(戦国期に弓兵はハズ槍という物を、弓の鉾先に装着し、矢が尽きると弓を槍として使用した名残です)


C 跪座のまま弓を立て右手で弓矢を保持する


D 跪座のまま肌ぬぎ動作

的を直視したまま、左足を半足引きキ座になり、弓を左脇に戻して物見を脇正面に戻す。着物を着ていたならば、ここで肌脱ぎ動作をします。胴着・行務衣等であれば気息を整えた後、的割動作。これは昔戦場で行射の際に、自分と相手までの距離を測るための動作で、弓手を的方向に弓を立て、ほぼ会の状態に弓を安定させる動作です。これにより、的が弓の矢摺り藤を通してどの位置に見えるかで、相手との距離を目測する簡易測量法です。

E弓矢を右手にて半月に掲げる

F的割り動作をし弦を返す

(矢摺り籐を通して的を確認し、的までのの遠近を確認する動作で実戦射法の名残です)

日置流では的(まと)は、テキとも呼び、敵に対応する心構えです。その時の弓と弦の位置は、弦が向弦(弦が的正面の方を向いています)的割が終われば、弓手の握りを的正面に押し出すようにして反動で弦を返します。(これがなかなか難しい) 通常であれば弓を身体の中央に立て右手にて弦を返しますが、戦場弓である日置流印西派の射法は、片手にて弦を返し動作の無駄を極力省いています。弦を返した弓は、左膝横に立て物見をし甲矢の矢番えをします。乙矢は右膝の上に斜めに置きます。


G 番え動作(乙矢を右膝の上に置き甲矢を番える)


H 弓構え動作(弓構え動作には、矢番え、物見、取り懸かけの三つの動作がある)

的を直視したまま弓倒しの後、吸う息で物見を返します。弓を持ったときの全ての動作は、吸う息で始まり、動作の節目では吐く息となります。息合いと動作の関係は重要で、息合いを無視すると鋭い矢が出ません。息合い、間合い、気合は大事な三要素で平常心のなかで、この三つのバランスが良射を生む条件となります。

I 取り掛け動作

取り掛け動作は、戦場弓の日置流の作法に従い、右手にて筈を保ち、右手の張りをそのまま残して左手を軽く押し開くようにして手の内を整え(左手を開き、親指と小指の隙間の間隔が平行になるようにし、親指の付け根に握り皮が来るようコンパクトに弓を挟みます。その時、天紋筋を握り皮外竹の縁に当て、小指から薬指と弓握を挟み持ちます。そうすると、親指の腹と薬指の爪が微かに接する感じになり、親指と薬指の空間に差し込むように中指を押し込みます。人差し指は軽く曲げ、親指の第一関節の内側に軽く着くがごとくに手の内を整えます。ここで、左右の張りを失わないようにしながら、矢線に沿って物見をします。ここの構えが日置流武射の見せ所です。

J 大三(押し大目引き三分の一)

打ち起しは弓構えの形から、吸う息で日が昇るがごとくゆっくりと張りを失うことなく正確に、目線よりやや上まで持ち上げます。その時、矢は床面と水平になるが、矢尺の長い分だけ板付(鏃)がやや水流れのごとく下を向くのはよしとされる。息を全て吐き出し、吸う息で引き分けに入ります。引き分けは押し開く感じで、矢通りに左右均等におこないます。

K 会(的を狙って天地左右に伸びあい発射の機を計る)
会では天地左右に伸び合いながら、吸い込んだ息をわずかに漏らし丹田に気力を充実させ、押し手を効かしながら離れの機会の充実を待ちます。

離れは押し手を効かし、身体の中筋、弓手わき腹から左肩先を意識しながら、押し手の親指で的面を突き破るがごとくの鋭い離れを導きます。離れでは一般の大弓のように弓返りはさせず、日置流戦場弓の作法通り打ち切射法をいたします。


L 残心(残身)

弓倒しをして、物見返し、左足から立って右足から退場口に向けて歩く。入り口手前で、上座(国旗・神棚・審査員)方向へ向き直して「揖」をして、3足目で出ていけるようにする。(居合演武の「刀礼」については別に定める)

四半的の体配は、独自に日置流印西派の古流弓術のカタチを参考にし、射法形として創作したものです。競技射法ではなく古流演武射法ですのでくれぐれも誤解の無いようお願いいたします。

ご紹介した射法は、十三棋道舘道場の弓刀吹将子先生(日置流印西派日置當流浦上同門会)との情報交換の中で提供していただいた内容です。弓道の「古流」の形としても参考になると思います。また、摂津流は、古流体配として関東稽古会・奥伝射法研究課題です。日置流印西派日置當流浦上同門会の体配を準用した古流弓術武射の要素を加味した甲矢乙矢一手の体配は錬氏稽古形の必携とします。(棋道舘流または摂津流)

 北川先生の演武(棋道舘道場師範 錬士六段)

■私と四半的弓道の出会い    十三棋道舘道場 弓刀吹将子先生(寄稿)

私が開いております十三棋道舘道場から、徒歩7〜8分の所によく訪れます猪飼弓具店がございます。そこのお店に5年ほど前のことですが、偶然にも四半的弓道の弓矢がおいてありました。店主にその弓矢はどのように使用するものなのかを聞きましたが、四半的弓道に使用する専用の道具であることだけしか分かりません。私が色々な武道・武術を修練している物好きである事をよくご存知の店主は、道具一式を預けるから独自で研究し、出来れば普及もしてほしいとのことでした。そこで、四半的の本場宮崎から行射のビデオや冊子等を送ってもらい、四半的弓道とはいかなるのもなのかを調べはじめました。長年に渡り、弓道と日置流印西派弓術にかかわってきましたが、四半的弓道なるものは、見たことも聞いた事も無く、周りの弓士の方々も存知よりの方は皆無でした。(この状況は現在も同じです)

■四半的弓道の体配について

宮崎県四半的弓道連盟の冊子によりますと、四半的の射形は旧飫肥藩に伝わる日置流弓術の伏射のカタチを取り入れ、的前斜面打越しとして、正座による体配を正式としているようです。飫肥藩弓術指南が日置流であったというのも影響しているようです。。古流弓術、特に日置流を研究している方としては、この体配にいささか疑問と思われる方もいらっしゃいます。ビデオや写真で行射を拝見し、詳細なことはわかりませんが、射形はかなり個人差があり、的当たりを重視しているようにお見受けいたしました。

また、四半的弓道という名前はついていますが、弓競技が主体の感じで、もともとの発祥が武術であるというのに残念に思えてなりません。競技愛好者は年配者が大半で、「誰にでも簡単に出来る弓道」というところは評価できますが、あまりに安易な方向に流れ堕落しているように思われます。(ゲートボールの弓道版という感じです)そこで、武術としての要素を体配に残し(正座ではなく、戦場弓術の基本はキ座であり割り膝です)日置流の弓術射法をカタチのなかに組み込み、あくまでも私的に考案したのが、摂津流四半的弓道の古流体配です。現在行われている四半的弓道の形とは、関係が無く独自の古流形です。貴殿の平成流古武道研究会は、四半的を弓術武道として稽古形から研究されているようですが、こうした考えは大切なことだと思います。また、剣術居合も組み込まれていますが、日置流にもこれと同じような形が存在しています。今後の形稽古に参考になればと思います。
             

■四半的弓道の将来について

どのような競技種目であれ、その種目が維持発展していくためにはいくつかの大事な要素があります。第一点目は、その競技愛好者の中に女性・子供が数多くいることです。それにより、競技人口全体の平均年齢が低下し、競技種目の活性化に繋がります。
第二点目として、競技はファッショナブルでなければなりません。「袴姿に憧れて」弓道を始める女子高生のいかに多いことか!競技者の服装がファッショナブルでなければ、その競技に興味を持つ人々の数も半減するでしょう。また、弓術武道として射形や射法、礼法・作法を主体に稽古をするのか、スポーツ競技として行なうかによってもコンセプトが違ってくるのではないかと思います。
第三点目としては、礼法と射法が一般の競技者全体に体得されることが大切です。一部の四半的競技射の間には焼酎を飲みながら行射する習慣がいまだに残っていると聞いています。地域的にはこのような振る舞いも市民権を得ているようですが、全国規模での四半的弓道の普及を考えれば、少しばかり困ったものです。

「ラストサムライ」で半弓が登場したようです。映画は見ておりませんので、どのような戦闘シーンで四半弓が使用されたのか分かりませんが、おそらく実戦の場においては最低でも10キロ以上の弓力を有する弓を使ったと想像されます。(現在使用している弓は4キロ内外だと思います)と申しますのも、甲冑武者に相手に戦うとすれば、矢の貫通力が大きな問題となるわけですし、現在の競技で行われている四間半の有効射程では、武器として使い物になりません。
合戦場で武器として使用できる弓の狙撃最低射程距離は15間(28M)、狙撃最大射程距離は33間(60M)とされています。飛翔するだけなら四半的でも100間(180M)は必要でしょう。(戦国期における弓足軽の採用基準は、半弓で軽く一町(300M)超えができ、矢数をかける事が出来ることが必須条件でした)そのように考えると、戦場弓の強さは簡単に計算する事が可能です。

四半的の弓でも10キロ以上の弓力になると、右手で筈を挟む射法では矢数を射掛けることは出来ません。推測ですが戦場での射法は、右手で筈を挟むものではなく、「ゆがけ」を用いて右手親指の腹で弦を掛ける大弓の射法に近いものではなかったと思われます。この射法だと、右手親指を保護するために鹿皮でチョンガケ(親指の保護サック)を使用していたと考えられます。チョンガケは鹿皮の一枚物ですから、これを付けたままでも刀の使用は十分に可能です。いずれにしても、いろいろな角度で武道弓術として研究することは大切なことだと思います。新しい発見があるかもしれません。

・弓刀吹将子先生プロフィール(本名:北川 茂 十三棋道舘道場師範):全日本弓道連盟 錬士六段 (日置流印西派日置當流浦上同門会、無言歌目録印可)虚心流居合剣法 錬士七段 (大日本武徳会所属 居合道教士六段)日本スポーツ吹矢協会 四段 (平成11年度全日本大会1位 ・ 12年度同3位)日本将棋連盟 五段 (古流酉将棋 ・ 中将棋伝承)関西棋院 五段 


↓・十三棋道舘道場URL


http://www.juuso-kidokan.com/shihannmatokyudo.html



  射法八節と正座射(伏射の形)
Date: 2004-09-01 (Wed)
■武道とは、本来心を元にして形に発動するものなれば、形は時に従い、事に応じて変化変転極まりなきものなり。

狙いが定まり、まさに発射する瞬間を「離れ」といい、会と一体のものである。押して(左)と引き手(右)が充分伸びて全身全霊が1本の矢に集中されて発射されるのが離れである。「ゆがけ」を必要としない四半的においては、的に狙いが定まったときに指を離せばよい。大弓とは異なり、狙いは矢先で合わせる。離れの後は、矢は一直線に的を目掛けて飛んでいく。離れの瞬間に長い矢先がぶれてはいけない。


http://www.rak3.jp/home/user/sihannmato/

射法とは、弓矢をもって射を行う場合の射術の法則をいい、弓道を修練する場合には、まずその基準となり法則となっている射法を、よく理解することが必要です。昔から射法の形式は七道または五味七道と称して、一本の矢を射る過程をその推移に順応し、七項目にわけて説明されていますが、近世これに「残心」(残身)という一項を加えて八節となりました。すなわち、次のような名称で区分されています。

●正座・・胴造り・・弓構え・・打起し・・引き分け・・狙い・・離れ・・残心・・。

「四半的 関東稽古会」では、初伝の正座射の形において「飫肥藩日置流」の射法を導入しています。これは、規定の競技射法が正座姿勢であり、制定形という認識で採り入れたものです。また、平成流として、立膝射法(中伝)も考案され、左片手で弓と矢を一緒に持って射場に入り、礼法も立礼(揖)のみで簡略した実戦仕様になっています。的に直角に座ると同時にすぐ弓構えの射法に入り、連射2本の早射です。その偏の平成流の独自形については、初伝・中伝・奥伝の稽古形にて解説されています。また、関東稽古会教伝は門外不出ですが、会員対象にホームページ上で公開しています。下記で解説するのは、日置流の正座射法を写したものです。制定形として導入したもので、宮崎県四半的弓道連盟の競技規定射法と認識してください。「初伝」で習得必携です。

■射法八節:正座射(日置流・宮崎県四半的連盟の制定形射法参考)

(1)正座(せいざ)
 
正座は射を行う上で最も大切な、正しい姿勢の基礎となるものである。
まず、「執り弓の姿勢」をつくります。弓を左手、矢を右手に1本(平成流では2本または4本)持って、手の位置は腰にあてた姿勢で射位に入り、的に向かって「揖」。揖とは軽く一礼すること。矢を左手に持ち替えて(弓と一緒に持つ)的を正面に見て弓と矢を立てた格好で右足を半足引いて「ぎ坐」。それから膝を滑らせて正座する。(作法は、弓道の礼法と似ています)

弓と矢は前(的の方向)に倒すように置きます。(左の膝前あたりから的方向に置かれている感じです)この正座姿勢で両手は膝の上にあるので、ここで的に向かって両手を着いて一礼する。礼は、膝にある手を左右の床に滑らせて、そのまま正面にもってきて、手の動きにあわせるように頭を下げる。(小笠原流の作法・礼法に準じます)

このままの姿勢では矢を射ることはできないので、右に向きを変えると同時に、的と直角に正座し直す。まず、腰をきって「ぎ坐」してから右膝を起点に左足を回転させるように向きを変える。一般弓道と同じです。正座ができたら、安定できる程度に両膝を開く。これが胴造りの準備である。直角に向きを変えた時、先ほど置いた弓と矢は、左脚の膝前の右側にある。

(2)胴造り(どうづくり)

胴造りは上体の安定を確保するためのもので、正座に続く動作で、両者は区別されるものではない。肩の力を抜いて精神を統一をする。
左膝前に置いた弓と矢を右膝上まで引き寄せてくる。左手で弓の握り矢を持って、矢を左膝横に立てる。次に右手で矢筈(やはず)をつまみあげて、矢の3分の1のところを弓にあてがい、左手の人差し指と親指で矢をつまむ。次に矢羽まで送り込む。「ゆがけ」を用いないので取り懸けなどは楽である。

※ 以下 形稽古の詳細は「弓術射法教伝」を参考に習得ください。ここでは射法八節の要素のみを確認してください。(関東稽古会では形稽古が主体です。それ以外の的当てだけの連続射矢はありません。形稽古中も一つの形で最大4射(4矢)となります。

(3)弓構え(ゆみがまえ)

 弓構えはいよいよ弓を射る動作に入る準備で、取懸け、手の内、物見からなる。四半的の斜面打ち起こしでは、自分の正面で取懸けをした後、そのまま弓(取懸けた状態で)を左足の外側に持ってくる。そこで手の内を決めて、斜面打起こしの準備に入りる。(正面打起こしの場合は、弓は左側に移動させません)

(4)打起し(うちおこし)

弓構えした矢を的方向で下に向けて物見になる。矢先が床に着くかつかないかぐらいにする。呼吸に合わせ、静かに左ひじを上に伸ばしながら的前斜面打起こしに入る。矢は頭の高さで平行になっているか、水流れとする。(的前斜面打起こしと的前正面打起こしの二通りの方法があるが、基本的に四半的では日置流の斜面打起こしが主流になっている)

(5)引き分け(ひきわけ)

引き分けは右利きの場合、左手(押し手)を伸ばしながら、右手(引き手)で弦を引き分 ける。(四半的の場合は、顎のあたりまで弦を引く。大弓のように耳の後ろまで大きく引いて、肩に乗せるような射法ではなく、引き初めてすぐに下がる感じになる。顎に右手の親指が固定する程度で充分だが、遠的になると射程が16mなので大弓同様の弦引きで口割りまで引く。(遠的の場合は大弓同様に弓の左で的を狙うので異なってくる)


(6)会(ねらい)

引き分けが完成され、矢のねらいをつける状態をいう。大弓と異なり、的に向かって弓の右側から矢の先端を的に合わせる狙いになる。また、この時、矢振れを一差し指を添えて止めるようにする。(※遠的の場合は、弓の左側で狙いを定める)

(7)離れ(はなれ)

発射する瞬間をいい、会と一体のもの。弓道と異なり左手は顎につけたままの状態で離れとなる。両手を水平に開く大きな離れにすると的をはずすことが多い。

(8)残心(ざんしん)

矢を射った後も姿勢を変えず、矢所(矢の着点)を見定め今の一射の反省。※この8項目の射法は、連続して行って初めて成立するものである。(射法教伝参照)

■四半的弓道 関東稽古会として独自の稽古形を導入( 稽古形は「初伝」・「中伝」・「古流奥伝」に別けられる )


http://www.rak2.jp/town/user/caw57320/

正座の射矢形(射法)は「射法八節」に基づいています。また、本来の四半的の競技姿勢である「正座形」を基本形(正式)として稽古します。稽古会では、立膝で射るスタイルや片膝を地面につける姿勢形、また、椅子に座った場合や弓道のような姿勢形を導入し、会として独自に研究した「形」を加えて稽古形を作っています。また、遠的は、関東稽古会独自の射程になり距離は16.4m(4間半×2)です。射法は坐射、立射で弦引きは大弓同様の口割りになります。会における的は弓の左側で押し手と交差するあたりで狙いをつけることになります。

↓・関東稽古会 根本天満宮道場(支部道場/会員リンク)

http://www.rak3.jp/home/user/tenmanguu/

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http://www.rak3.jp/home/user/heiseiryu/


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≪寄稿・Soul of Bushido≫


■和の心と武道の精神支柱について■                  武士道の話

 日本の教育制度をつくったといわれる新渡戸稲造(にとべいなぞう)が、英文で『武士道』を刊行したのは1900年です。武士道といっても剣術や武道の流派などを紹介しているわけではありません。また、なぜ英文なの?と思われるかもしれませんが、彼が、外国人から「日本人の礼儀の正しさや道徳心は、宗教教育からうまれたものなのか?」という質問に対して、日本の道徳教育の根源は「武士道」であるという考え方を紹介する上で、英語で著したようです。それは、明治33年のことで、この年は内外ともに象徴的なことがおこりました。 出来事をチェックすると日本はちょうど日清戦争と日露戦争のあいだにあたっています。ここで日本近代のさまざまな意味が集約されているわけです。新渡戸稲造の『武士道』がどういう中身なのかは本を読んで頂きたいのですが、武士道の真髄を析出したというより、武士道に象徴される日本人の生き方と考え方を紹介しているというふうに思います。総じていえば、武士道は儒教・仏教の長所だけを継承していながらも、義を中心にして勇・仁・礼・誠と名誉を深く重んじるとあります。つまり、仁、義、礼、忠、孝、勇、信、を柱とした教えであり、儒教の教えを汲む人生哲学です。仁、即ち、人へのおもいやり。義、即ち、人の行うすじ道。礼、即ち、人への敬い。忠、即ち、人へのまごころ。孝、即ち、親を含め人に尽くす。勇、即ち、挫けない強いこころ。信、即ち、人を欺かず真を尽くす。要するに「人を裏切らず、礼儀正しく、最後までまごころ込めて、すじ道を通して生きていきなさい」これが武士道の精神支柱です。

内容的には、中世ヨーロッパの騎士道とも共通するところです。そこにはキリスト教のよさや理想主義にも通じるものがあると言いわれています。ただし武士道にはキリスト教のような大きな「愛」が欠けているかもしれないので、そこで武士道とキリスト教が包摂しあえば、もっとすばらしいものになるのではないかという論旨になっていると思います。ようするに、日本人にはキリスト教に比肩しうる道徳の伝統があるということを外国人に強調しているわけです。英文では、武士道は最初では“chivalry”(騎士道)となっていて、途中から“Bushido”になります。このへんが海外にはわかりやすかったのでしょう。もっとも日本人であれば「葉隠」を読めば、武士としての生き方については、より深く探求できるのではないかと私は思います。昨年のNHK大河ドラマでは、「より、武士らしく生きたい」という「新選組」でありましたが、今年の「義経」では、武士の源でありながら、武士らしく生きることの難しさが伝わってくるのは私だけでしょうか…。いずれにしても、とかく現代人は忠義をもって生きることに欠けています。「Soul of Bushido」万歳です。(客員研究家・ 國井様寄稿 http://www.rak3.jp/home/user/sihannmato/

■居合道 夢想神伝流について

夢想神伝流は、現在最も隆盛を誇る居合流派のひとつといわれています。夢想神伝英信流、無双神伝流などとも称され夢想神伝流は、現在最も隆盛を誇る居合流派のひとつです。夢想神伝英信流、無双神伝流などとも称され、林崎甚助重信を流祖としており、享保年間、七代目長谷川主税助英信によって大成され、以後、長谷川英信流、長谷川流、無双直伝」英信流などの流名で土佐に伝承した居合・抜刀術を根幹にして成立したそうです。

夢想神伝流の術技・技法は、剣術、居合・抜刀術の中では非常に一般的な、奇をてらわない標準的なもので編まれています。自然な動きを重視した抜き付け・抜き打ち、基本通りの真っ向斬り下ろし、体格の差を補うことができる合理的な納刀などを中心とした、堅実な流儀です。

剣術や居合・抜刀術にも通じる、汎用性の高い術技・技法を学ぶことができるとされ、後に他流の者が夢想神伝流を学ぶ場合にも、違和感なく稽古できる流派といわれています。個々の技は、中伝・長谷川英信流の「浮雲」や奥伝・奥居合のように、人によっては若干困難となるものも見られるようですが、総じて年齢や体型が問題とならず、長く修行できるそうです。

■林崎甚助重信

居合(抜刀術)の祖として居合各流に多大な影響を与えた人物です。父の仇討のために剣術を修行し、長柄の野太刀を背負って「袈裟の一刀」を得意としたとされる一方、塚原卜伝にも学び、「一の太刀」を伝授されたとする伝承もあります。そのためか、彼の創始による林崎流、重信流、林崎夢想流は組太刀を多く含んだ、非常に実戦的な流派となっています。

居合は剣道の奥の院とも云われ、表裏一体・車の両輪であって、その本来の目的は同一である。剣道は相互に構え合っての勝負であるが、居合は居ながらにして合わすの術で、いついかなる場合でも、又いかなる場所に於いても対処します。その相手は仮想敵です。又、剣道は打ち合いの技であるのに対し、居合は斬り落とすの術である故、自ずとその手の内は異なります。

■関東稽古会で導入している制定居合とは…。

 全日本剣道連盟は居合道を学ぶことで、刀の操法を知り手の内を修得して剣道の技にそれを生かせるようにと、剣道家にも習いやすい居合道の形を作ろうと昭和三十年代に企画し、四十一年に当時の大谷一雄理事長が中心となって、吉沢一喜(伯耆流)・政岡壹實(無双直伝英信流)・武藤秀三(長谷川英信流)・末次留蔵(夢想神伝流)・山本晴介(無双直伝英信流)・紙本栄一(長谷川英信流)・檀崎友彰(夢想神伝流)・山蔦重吉(夢想神伝流)・寺井知高(長谷川英信流)・額田長(夢想神伝流)・大村唯次ぐ(夢想神伝流)・沢山収蔵(伯耆流)の十二名によって研究会が作られた。

 そして、昭和四十四年三月、「全日本剣道連盟居合」(制定居合)が制定された。当時は七本目までであったが、昭和五十五年三月に三本追加され、平成十三年四月に新たに二本追加され、現在は十二本となっている。関東稽古会の居合稽古形は、制定居合の1〜10本目までを導入しています。

 一本目  前  
 二本目  後ろ
 三本目  受け流し
 四本目  柄当て
 五本目  袈裟切り
 六本目  諸手突き
 七本目  三方切り
 八本目  顔面当て
 九本目  添え手突き
 十本目  四方切り
十一本目  総切り
十二本目  抜き打ち


■居合道 無想神伝流の古流形

・初伝

初発刀 / 左刀 / 右刀 / 当刀 / 陰陽進退 / 流刀 / 順刀 / 逆刀 / 勢中刀 / 虎乱刀 / 陰陽進退替手 / 抜刀
  
・中伝

横雲 / 虎一足 / 稲妻 / 浮雲 / 山颪 / 岩浪 / 鱗返 / 浪返 / 滝落 / 抜打

・奥伝

座業:霞 / 脛囲 / 四方切 / 戸詰 / 戸脇 / 棚下 / 両詰 / 虎走

立業:行連 / 連達 / 惣捲 / 総留 / 信夫 / 行違 / 袖摺返 / 門入 / 壁添 / 受流 /暇乞

出典 : 居合道教典(檀崎友彰著・体育とスポーツ出版社)



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≪寄稿・風俗研究家≫

■娯楽弓戯の時代■

■歴史考:江戸時代に一般都市庶民の娯楽弓戯の名称になっていた「楊弓」について

ところで武士階級との関係だけではなく、町方で一般に楽しまれた体育・スポーツ的活動はあったのでしょうか。もしもあるとすれば、それはどんな種目の、もしくはどのようなタイプの身体活動であったのでしょうか。
  当時、町衆を含んで何度も流行をみせていた身体活動の代表は投扇戯でした。たとえば1774(安永03)年4月以降に、江戸では内裏で投扇戯が好まれたばかりではなく、町なかでも流行しており、その流行は翌年以降までにも継続していました。この投扇戯はその後19世紀に至ってもしばしば流行し、それ故に禁止の対象ともなっていました。1808(文化5)年8月には賭けをして争いとなり禁止されたし、1822(文政5)年8月にも、江戸浅草寺奥山、御蔵前通、両国などの盛り場で流行していた投扇興行が禁止されています。江戸で都市文化の爛熟期であったとされる文化文政(1804前後)には、投扇戯は、京都や大坂などでも流行していました。
  1809(文化6)年に刊行の『投扇之記』には、このゲームのルールが、投げた扇と的の位置(形)によって図式と点数が定められているとか、投げた回数の点数を合計して勝敗をきめる等と、系統的に記されています。またこの扇の投げ方に関しても、 「....双方座きハまり,前後の礼式ありて,先手まづ青き扇を取上ケひらき 要の所を大指(親指)と人差指にてかるく持、向ふさがりに手を出し、花台を目当にして和らかになぐるなり....」 と説明されています 16) 。 この「和らかに投げる」という意味の表現は特徴的だと思います。この他、台と投席との距離は「四扇」すなわち扇4丈分とするとか、また的台の左右に座る記録役と判定行事役との位置、さらに投げる回数などにも触れられていました。
  この投扇流行の一方では、この投扇の原型となり、この投扇がこれを模倣して考案されたと指摘される「投壺」も、1775(安永04)年には京から流行していました。すでに1770(明和7)年には、列樹栄の『投壷指南』も刊行されていたが、投扇に比較して、礼式作法などが煩瑣(はんさ)で、酒席などでも即座に、あるいは手軽に出来なかったようで、文人や上流町人達の間で好まれました。この競戯では,壷を挾んでふたりが相対し,それぞれ12本の矢を投げました。
  江戸時代に主に一般都市庶民の娯楽弓戯の名称にもなっていた楊弓については、すでに元禄頃(1688〜1704)には、江戸,大坂などに「楊弓場」または「矢場」と呼ばれる競戯施設が多くつくられていました。一説では、京阪では「楊弓場」、江戸では「やば」といいました。「矢場」については、射る場所は畳敷きで、その先は的まで板間でした。畳に座って矢を射ました。また京阪には「半弓場」という独特の矢を射る施設もありました。これらは料金(矢の代金)をとって景物を当てる娯楽であり、また賭けも通常行われていたようです。
 そして競技的なコンテストとして、この「楊弓場」に「詰改」と称する機会があったことは特筆すべきだと思います。「詰改」は、毎年5月と9月に二回実施されていたようです。「番付」(ランク付け)がなされていましたが、それは、競い合う総矢数200本のうち50本以上当たれば「朱書」、100本以上当たれば「泥書」、150本以上が「金貝」,180本以上が「大金貝」とされていました。

■湯島天満宮境内の歴史に登場する「楊弓場」

湯島境内は、広重の「江戸百景」などの画題となり、湯島十景、また武州洲学十二景に「南隣菅祠」と題されている。
古く文明十九年(1478)堯恵法師の「北国紀行」には当時の風致をたたえている。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康公は湯島郷の内御朱印五石を社有として寄進した。
近世の縁日は、毎月十日・二十五日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した。
また富突は、今日の宝くじに当たり、谷中感応寺・目黒不動とともに江戸三富と称して代表的なものであった。文化九年には(1812)湯島天神は目黒不動とともに公許され、境内は熱狂した群集でわきかえった。
泉鏡花の「婦系図」の舞台として演劇に映画に歌謡曲に「湯島の白梅」の名を高らしめた。
江戸期から明治にかけて、例年七月二十六日夜の拝月は、遠近の老若男女が群集して雑踏を極めた。また二月十日の祭礼には、砥餅(ともち)と号し砥石の形に作った餅を神供に備え、氏子へも同様の餅を配った。
境内には売薬香具見世・楊弓場などが軒を連ねてあり、宮芝居が数度行われている。また文政七年(1824)正月境内で大相撲本場所も行われた。

■京の都などで公家の間で流行った「楊弓」の射程は14mである。

日本では江戸時代に書かれた忍者の本「万川集海」の忍器篇に吹き矢の図1枚が記載されているらしい。井原西鶴の書いた元禄元年の日本永代蔵には、吹き矢の細工人がいると記されているそうだ。その頃には揚弓場、半弓場で小型の弓や吹き矢を用いた弓遊技(ゲーム)が盛んだった。子供ばかりでなく大人もこれで遊んだという記述がある。元来、吹き矢は竹筒の中に矢を入れて鳥などを射落としていた遊技であったが、江戸時代にはもっぱら子供の遊びになり、盛り場などでは3mもある大きな吹矢をつくり、的に矢が刺さると賞品をだすことなど大人の遊技にもなった。江戸時代末期以後は多くは子供達が手製で作って仲間同志で的に当てて遊んだものである。楊弓:「楊弓場」「半弓場」「矢場」で用いれれた楊弓は柳の木で作られた弓で、弓は 2尺8寸(85cm)矢は9寸(27cm)から9寸5分、的は3寸(9cm)− 3寸5分(11cm)的までの距離は7間半(14m)が定式で座射で射た。高級な木箱のセットに弓や矢が納められており、まさに貴族の高級な娯楽(弓遊技)でもあったようだ。 その他に「大弓場」「機関的」などの弓技場もあった。この機関的は「吹矢的」とも呼ばれる吹矢競技場の名称でもあった。機関的は矢が的に当たるとひもが解けて妖怪などが現れる仕掛けの的である。


■平安時代の遊「小弓」■


【 小弓 】
 『枕草子』のなかで、清少納言が囲碁や蹴鞠よりもおもしろいと記した遊技、小弓。平安時代の貴族社会で人気を博し、『源氏物語』にも登場するその遊びはどのようなものだったのでしょうか。

【小弓遊びにいきいきと興ずる平安貴族】
 小弓とは、その名が示す通り小さな弓矢を用いた射的のこと。室内で座ったまま行うのが特徴です。小弓は本格的な競射ではなく、貴族たちが遊びとしてたしなんでいたものと伝わります。『源氏物語』の若菜の上・下、蛍などの巻にも、小弓遊びにいきいきと興ずる平安貴族の姿を見つけることができるほどです。しかし、一説にかなりの碁打ちであったといわれる清少納言のこと。小弓も単なる遊びとして捉えることなく、一本、一本の矢を精魂こめて放つことで自らの感性を研ぎ澄まし、真剣勝負としての醍醐味を味わっていたのかもしれません。

【江戸時代、庶民にも人気を博した楊弓(ようきゅう)】
 その後、室町時代には小弓を定式化した楊弓という遊びが誕生。楊(やなぎ)でつくった二尺八寸(約八十五センチ)の弓を用い、九寸(約二十七センチ)の矢を七間半(約十三・六メートル)離れた的に向かって射るもので、公家や武士たちの間で人気を博しました。江戸時代に入ると、楊弓は手軽な娯楽として庶民にも楽しまれるようになり、人の多く集まる寺社付近にはたくさんの射場が設けられました。

【道場で心を澄まし、自らを振り返るとき】
 さて、弓道が最近、静かなブームを呼んでいると聞きます。矢を的に中てるためには腕力よりも強い集中力が必要とされるため、精神鍛錬の助けになるという考えから。あるいは、正しい礼儀作法や美しい動作を身に付けたいという思いからなど、その人気の理由はさまざまだとか。
 ともあれ、静かな道場で心を澄ます一瞬は、日常生活では味わうことのできないとき。忙しさに追われ、ともすれば自分さえも見失いがちな現代人にとって、自らを振り返るのにまたとない機会になるのではないでしょうか。

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